『福島原発の闇』

福島原発の闇』という本をご紹介。著者は記録作家の堀江邦夫さん、漫画家の水木しげるさんです。本書は、堀江さんが原発労働者として働いたルポ「パイプの森の放浪者」(「アサヒグラフ」1979年10月26日号、11月2日号)とそれを元にした水木さんの漫画をレイアウトしたものです。以下、面白いと思った4点。

原発の仕事は、「事務所待機」からはじまる。さまざまな健康検査や手続きがこの期間中に行われ、その結果次第で原発で働けるか、帰されてしまうかが決まる。検査の第一ステップは、”思想調査”だ。福島原発の場合、「雇用時における安全教育調査票」という用紙が配られ、氏名・現住所・家族構成・免許の有無といった項目とともに、原発の安全性や必要性、地域への有益性などについて「どう思うか」といった設問が用意されている。この「調査票」は、各労働者の原発に対する意識を調べるための、”踏み絵”の役割もはたしている。これらの検査に合格すると、次は「放射線管理教育」の受講が待っている。だが、「教育」とはいうものの、原発と原爆の違いとか放射線の種類といった、難解な話が一時間前後あるだけで、マスクや防護服の着用方法といった、放射線下で働く労働者にとって最も必要と思われる実践的・具体的な教育は、皆無だった(pp18-19、一部省略)。

その日、私は仲間の労働者数人と福島原発の一号機内に入り、そこのタービン建屋地下1階で作業をしていた。突然、パルプのすきまからものすごい勢いで水がふき出してきた。悲鳴をあげて逃げまどう労働者たち、ボーシン(現場の責任者のこと)の怒号、水の激しい噴出音……。原発の詳しい構造や仕組みは知らないまでも、この水が原子炉内で発生したものであり、見た目にはなんともなくても放射能に汚染されていることぐらい、私たち労働者にもわかる。なにより、各作業現場には必ず立ち会うことになっている肝心の「放射線管理者」がいないので、目の前のこの水がどれだけの放射線量を帯びたものなのか、それさえわからないのだ。この流出事故の際、逃げ遅れたため全身に水を浴びてしまった者が2、3人いた。彼らの話によると、下着までびっしょりだったという。つまり、「防護服」とは、実際には防水性さえ備えていない代物だったわけだ(pp23-29、一部省略)。

原発内で肋骨を折る重傷を負った私……その私を次に待ち受けていたのは、会社側の「事故処理」だった。元請け会社の所長は、開口一番、こう言った。「労災の申請は勘弁してほしい」「それ(労災申請)をすると、原発内で事故が起きたことがマスコミに知られてしまう。そうなると東電さんに迷惑をかけることになる」との理由からだった。後日、原発の仕事を去ってからしばらくたったある日、私は、福島原発を管轄する富岡労働基準監督署を訪れた。私が経験したような労災隠しが原発内ではほかにも行われているのではないか。その問いにたいして署長はこう答えている。「労災隠しは絶対に無いかって聞かれれば、そりゃあ絶対に無いとは言い切れないでしょね。でもね、東電の安全対策は、そりゃあ厳しいもんですよ。ですから、われわれとしても、東電や業者を信用しているってわけですわ」その署長室で「東電を信用している」という言葉を耳にしたとき、私はなかばあきれ、なかば悲しかった。労働者の健康・安全を守るために事業者を監督する立場にあるはずの労基署が電力会社や元請会社だけを「信用」し、肝心の労働者のほうを少しも向いていないことを知ったからだった。(pp74-75、一部省略)

32年後の今もなお、原発の労働のデタラメさに変化はないようです。最後に、次の文章をご紹介。

福島原発の内部はいまだに厚いベールに覆われてたままだ。しかし、日がたつにつれ、管理の実態が断片的ながらも、少しずつ、明らかになってきた。新聞記事をざっと追うと次のようになる。
「多い日で180人が線量計を持たずに作業した」(『朝日新聞』4月3日)。「大阪・西成のあいりん地区(釜ヶ崎)で求職した男性が『30日間、宮城でダンプ運転』という求人内容とは異なる福島第一原発敷地内での作業に従事させられていたことがわかった。安全教育もなく、当初は線量計もなかった」(同、5月9日)。「3〜4月に働き始めた作業員で総被ばく線量が事故前の上限100ミリシーベルトを超えたのは111名にのぼる。所在不明の作業員は132名になる」(同、7月14日)。(pp92-93、一部省略)。

福島原発の闇 原発下請け労働者の現実

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