変容した日本六古窯という造語

はじめに

陶磁器研究者であり、陶芸家でもあった小山冨士夫(1900-1975)は日本六古窯という学術上の造語を提唱しました。日本六古窯とは瀬戸焼常滑焼、越前焼信楽焼丹波焼備前焼の産地のことです。現在、この造語に学術上の意義はありません。小山本人が「日本六古窯の思い出」という文章で語っているように

瀬戸・常滑・越前・信楽丹波備前を俗に日本六古窯とよんでいる。日本六古窯という名称は戦前私がつけたものだが、戦後は岐阜県の中津川、多治見付近、静岡県の金谷付近、渥美半島能登半島などに平安・鎌倉・室町時代の古い窯址が発見され、厳密にいえば今日では正しい名称とはいえないかも知れない(小山:1978.74)。

つまり、戦後の研究者たちがこの六産地と類似した窯址を発見したがゆえに、小山による日本六古窯という造語は学術上の意義を失いました。それを出光美術館理事の長谷部楽爾さんは次のように書きます。

先生の六古窯の提唱は、中世のこれらの古陶の存在を、一般に印象づけようとしただけでなく、日本陶磁器史への関心を、これによって高めようと想像される。たしかに瀬戸を除くと、備前信楽などが中世にどのような状態であったか、当時はほとんど知られていなかった。ここに六古窯という響きのよい呼称を置くことによって、日本陶磁史は魅力的なものになった。
しかし続々と中世古窯が発見されて、六古窯の意義は薄れていった。六古窯の呼称はその役割を終えたのである(長谷部:2005.15)。

2.日本六古窯

こうした文章がすでに存在し、日本六古窯という造語の意義は失われているにもかかわらず、この造語は今もなお一般的に(特に観光の文脈)、用いられ、存在しています。たとえば次のように。

鎌倉時代以前より継続している古い窯の中で、後生大きな産地となった代表的な六つの窯、瀬戸・常滑・越前・信楽丹波備前の六窯を指す言葉です。
古陶磁研究科の小山冨士夫氏によって昭和23年ごろ命名されたもので、信楽はその中でも最古のものの一つとされています。
土味を生かした素朴な風合いが、年月を超えて多くの人々に愛されて来たということでしょう(http://www.e-shigaraki.org/knowledge-sixkilns/*1)。

この作文の目的は、なぜ今もなおこの造語が一般的に用いられているのか、を考えることです。

3.ディスカバリージャパン

日本社会は1950年代から1970年代にかけて大きく変わりました。生活はアメリカ化し、都市開発や地域の工業化が進みました。だからこそ、1950年の文化財保護法、1954年の文化財保護法改正、1974年の「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に見るように、失われていく日本らしさを構築するために伝統的な美術や工芸に戻ろうとする心象が生まれ(brian:1984.224)ました。都市で暮らす人々は「古きよき時代の日本」というノスタルジーを求めて、観光産業によるディスカバリージャパンの名のもとに「田舎」な陶磁器産地を訪れたり、都市部での民芸ブームの一因(鹿野:1995.28、濱田:1998.82、濱田:2002.11)を作りました。

4.日本の陶磁器産地が変わる

陶磁器の大量生産の時代が全国の陶磁器産地に1950年代から1970年代にかけて到来します。陶磁器の生産するための窯は穴窯や登り窯から電気窯、ガス窯へ、ロクロは人の手をほとんど必要としない自動成型ロクロマシンへ移行しました。釉薬や粘土を専門に調合する会社や組合が生まれました。その結果、独自にそれらを調合していた産地メーカーの強みが薄れ、産地間を問わない横並びの商品が初めて誕生しました。各産地の風景は前近代的な登り窯、近代的なメーカーの工場、そして観光客のための休憩所などが混在しました。
こうした中で民芸の陶芸家だった濱田庄司(1894−1978)が1955年に第1回の重要無形文化財の保持者に認定されたことは、注目に値します。日本政府が民芸作家の濱田を日本らしさを表現する無形文化財として認定することは、アメリカ化していく日本や近代的なマシンを用いたメーカーによる大量生産品の存在を前提にしていることを、よく現しているからです*2。同時に彼のような存在は観光客にとり一つの魅力になりました。
小山は1950年に文化財保護委員会事務局の美術工芸課に、1952年に文化財保護委員会事務局の無形文化課に勤務し、1959年に文化財保護委員会事務局の無形文化課文化財調査官などに就任しました。小山は時代の要請の中で日本らしい美術や工芸を構築する側として活躍しました。

5.意味が変わった

小山は1974年に「日本六古窯の思い出」という文章のなかで日本六古窯の観光地化を次のように嘆きます。

日本六古窯の調査は戦前とは比較にならないほど進んだ。しかし、私がはじめて訪れた時のようなういういしい姿はなく、どこもかしこも荒らしに荒らされてしまった。たくさんの観光客が窯址までおしよせるようになり、落ちている陶片は根こそぎもっていくので、窯址もたまったものではない(小山:1978.79)。

この文章は、アメリカ化や都市化、工業化していく日本社会のなかで、日本六古窯という学術上の造語が「古きよき時代の日本」を求める人々から歓迎されたことを示しています。その帰結として、この造語は、図らずも、日本六古窯を提唱した小山自身にとって観光客から窯址を荒らされる一因となりました。1974年はこの点で日本六古窯という造語の転換期でした。小山の日本六古窯という造語は学術上の役割を終え、「古きよき時代の日本」をよく現す言葉として一般に用いられていることを示した瞬間だったからです。

≪参考文献≫
小山冨士夫.1978.『小山冨士夫著作集 中』.朝日新聞社
鹿野政直.1995.「一九七〇−九〇年代の日本−経済大国」『日本史通史第21巻 現代2』.岩波書店
長谷部楽爾.「小山先生の古陶磁器研究」『小山富士夫の眼と技』11−15.2003.朝日新聞社
濱田琢司.1998.「産地変容と『伝統』の自覚―福岡県小石原陶業と民芸運動との接触を事例に―」『人文地理50−6』78−93.
濱田琢司.2002.「観光ガイドブックに見る地域と工芸―九州地方のやきものの場合―」『地理科学57−2』33−47.
三井弘三.1979.『概説 近代陶業史』.日本陶業連盟.
Moeran Brian.1997.『Fork Art Potters of Japan』.University of Carifornia Press.

*1:信楽町観光協会「ほっとする信楽」サイトより

*2:興味深いことに、日本の陶芸史に足跡を残した八木一夫などのオブジェ焼作家は現在に至るまで、無形文化財の認定を受けていない。