ピンポーン

隣人は90歳を過ぎた老女で、今日の最低気温は0.9度だった。

今朝、誰かが隣人の部屋の呼び鈴を鳴らす音で僕は目をさまし、その呼び鈴が鳴りやむことはない。隣人は耳が悪い、隣人はだからテレビの音量をいつも上げている。鉄筋コンクリート越しに聞こえてくる音量は、したがって、僕が隣人のドアを横切るたびに聞こえてくる。

呼び鈴は止まらない。ピンボーン、ピンボーン、ピンボーン、ピンボーン、ピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーン。

僕は早朝の3時33分に一度、目が覚めた。僕はどういうわけか布団の中でぐずるわけでもなく、起き上がり、用を足した。それが3時33分だった。珍しいことだ。

呼び鈴を鳴らしていた誰かは、どうやら隣人の友人のようだ。彼女は「○○さん、○○さん、○○さん」とドア越しに声を掛けて、隣人の名字を何度も呼んだあと、次に「美恵子姉さん、美恵子姉さん、美恵子姉さん」と、親しげな声で隣人に呼びかける。彼女は呼び鈴を、しつこく鳴らし続ける。ピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーンピンボーン。

それらに対する隣人の反応は、静寂。隣人の友人の声が人気のない朝の廊下に響き渡る。冬はセミも鳥もなかないし、人も夏に比べると活動的ではないので、声がよく聞こえる。隣人の友人は続ける。「あれ、おかしいな。おかしいな。おかしいで。美恵子姉さん、美恵子姉さん、私です」。その場が緊張する。

隣人は用心深い。隣人はドアの鍵を3重に掛けているからだ。もし隣人が今朝、3時33分ごろに死んでいたとしたら、マンションの管理会社はどうやってドアの鍵を壊すのだろうか、と僕は覚醒し始めた頭で考える。僕はそんな場面に出会ったことがないので、そこから想像力を組み立てて、はばたかせることもできない。

何よりも隣人が死んでいたら、生き返ることもないし、耳が悪い隣人は単にまだ眠っているだけかもしれない。だから、考えても無駄だという結論に僕は至る。僕はそれから冬だから腐敗臭は少ないだろうなとか、ひょっとして夜になれば葬式の札が玄関に張ってあるのだろうかとか、事後のことを考えはじめる。

隣人の友人はなおも、隣人がドアを開けることを、あきらめきれない。彼女は10分も隣人のドアの前に立っている。呼び鈴は続く。