民藝と作家の両立−河井寛次郎の場合−

はじめに
陶芸作家の河井寛次郎(1890-1966)は民藝の作家として位置づけられています。民藝と作家は相反する概念ですが、河井においては両立しています。この作文ではこのことを考えてみます。

1.河井の葛藤
大正時代は、個人主義が台頭し、民主主義的な運動が広がった時代です。陶磁器の業界では、個人主義に基づく作家が誕生しました。例えば、西洋の美意識を日本に取り組もうとした富本憲吉(1886−1963)や沼田一雅(1873−1954)の面々。こうした時代のなかで河井も作家としての活動を開始します。

1914年から1917年まで勤めた京都市陶磁器試験場を辞した河井は、1920年京都市五条坂に住居と陶房を構え、そして1921年に中国古磁器や朝鮮李朝期の手法を用いた作品を発表します。作品は薄作りで、精巧です。評論家たちは河井を絶賛しますが、評論家の柳宗悦(1889−1961)は「その作品を東洋古陶磁の模倣であり独創性に乏しいと酷評*1」しました。個人主義が台頭していた時代において、柳の批判は痛烈だったのでしょう。河井の次のような葛藤が始まります。

どんなものの中に放り出されても無名の支那古陶器は判然と光っています。私はいつまでもこの窯名の印を押す時にはこう思います。いつになったらほんとうに私のものが造られるだろう。それはにはこうして、別に他と区別するために、印をつけなくてもよいはずだ。いつまでもこの貧弱なものを造っては、印をつけて窯に入れる事を続けていかねばならぬのかと思います*2

2.民藝運動
柳は1924年関東大震災を逃れて、京都へ移り住みました。河井は陶芸家の濱田庄司(1894−1978)を介して、柳との親交を深めます。河井は1926年に柳、濱田とともに「日本民藝美術館設立趣意書」を発表し、民藝運動を推進する側に立ちましたが、当時の河井の作品を見ると、作家としてどうあるべきなのかという河井の葛藤が読み取れます。その作品は以前と比べると厚みを増し、簡素な形になっているけれど、従来の作品の要素を残していたからです。1929年の第6回陶磁展覧会を経て、作品は今ではよく知られている河井的な特徴を有する形・装飾に落ち着つきます。河井は民藝と作家を両立させる着地点を見つけたのです。

3.河井寛次郎と富本憲吉
柳を中心とする陶芸作家たちは民藝という柳の思考から出発し、結果として、彼らは民藝に反した個性の強い作品を生み出しました。作家の思考が近代的な芸術観の上に成立していたから、個性の強い作品が生れた、という指摘はよくなされています。ただし、それだけでは、なぜ富本は個性を排す民藝から離脱し、河井はそれに賛同し続けたのかという問いに応えられません。ここには地域の影響がありました。富本は個人が台頭する東京で作陶を主に行う一方で、河井は共同体と個人が混じる京都で作陶を行いました。そこにおいては民藝とも相性がよかったのです。

4.地域という視点
初期の繊細な作品から民藝調の力強い作品に至るまで、河井の作品は一貫して京焼産地で作られた京焼です。歴史的に、京焼産地は有名・無名な工人が入り混じる産地でした。河井にとって京焼産地は無名の工人たちによる民藝の美を見出せる場であり、有名な工人が存在していたという点で、作家的な立場を接続できる地域だったのではないでしょうか。河井は民藝の思考を流用しながら、京焼産地で民藝テイストの陶器を作ることを選びました。河井は民藝と作家という相反する概念を、京焼産地を選択することで、両立させたのです。

≪参考文献≫
編/河井寛次郎記念館.「河井寛次郎展」.2010.毎日新聞社.
京都国立博物館.「京焼」.2006.京都国立博物館.
滋賀県立陶芸の森.「やきものの20世紀」.1999.滋賀県立陶芸の森.
松山龍雄.「炎芸術no.64」.2000. 阿部出版.
監/矢部良明.『日本やきもの史』.1998.美術出版社.

*1:編/河井.2011.p138

*2:編/河井.2011.p168、一部省略、読みやすさを優先して表記を変更。