京都五条陶器まつり その5

お祭りには作家たちも参加する。東海から近畿圏の作家、東京在住の作家までいる。作家による作品のテイストは似ている。一言でいえば、お洒落なお店が使用してそうな器。個人的には面白い作品があったらいいなーと思った。マグカップの取っ手が異常に長いもの、高台がその名の通り高い台になっているのもの、日常の生活のための器ではなく、宇宙で生活することを想像して、作った器など。



日常の使いやすい器はメーカーによるプロダクトデザインものが価格やフォルム、配色の面でずっと優れている。白山陶器や深山がつくる洗練されまくった器を見ていると、作家の器は価格やフォルム、配色の点で太刀打ちできない。メーカーがそこそこ有名な作家に器をロクロでひかせて、あとはその型を石膏で取ってしまえば、量産可能。ロクロで引いたかに見えるプロダクトが出来上がる。

そうかといって、じゃあ絵付けで勝負しましょうとはならない。今やもう、転写技術が発達しすぎて、手書きと転写の差異はない。手書きと転写を分ける境界線は価格だけ。手書きはウン万円の価格だが、転写になると何千円の世界。



作家の作家たるゆえんは手間暇かけた仕事以外にありえない。例えば、練り込みとタタラを組み合わせたような仕事、掻き落としを加えた仕事、自分でデザインした下絵を転写化した器、プロダクトデザインから逸脱した器=だから多少使いづらい、登り窯・穴窯を使った焼成など。なんでもいい、ようするにメーカーが量産できないものを作ること。

使いづらい器は売れにくい。売れなければ、収入が少ない。そこで作家たちは折衷案を提出する。作家的な装飾と日常陶器の使いやすさを掛け合わせた器。作家の作品のテイストも似通ってくる。メーカーのプロダクトデザインの器が似ているように。



だから、僕は思うのだ。評論家は一般的な作家がつくる器にオリジナリティーを求めるなと。陶磁器の歴史は何千年で、たくさんの人が陶業に関わってきたのだ。人が使う器である以上、器はどこかしら似通ってくる。オリジナリティーを追及できる作家は社会保障や税金のことを考えずに、経済的な基盤ががっちり安定していて、世界中の陶磁器に異常に関心を持ち=だから世界中を飛び回れるだけの経済力と野望を持ち、芸術大学の大学院に行けるだけの文化資本が豊かな家庭にたまたま生まれ、育ってきた人だけなのだ。もちろん、こうした条件下から外れて、何十年間も国内で評価されず、ようやく海外で評価された人もいるが、そんな人はまれだ。

僕は陶器祭りを見て、そんなことを考えたのであった。