友だちからのメール

友だちからのメール。共感できる部分が多くて、掲載の許可をいただいた。

僕は自分が生きている現代を知りたくて、現代史を意識的に読むようにしています。今は哲学なんかの古典も手に取るようになりました。手軽に読めて、鮮やかな分析を行う本も好きだけど、ちょっとこれはどういうことだっていう本も読みたくて。20代のときはとにかく読書の数をこなしたかったんですよ。数をこなしたかったから、時間のかかる古典とか歴史を学ぶのは敬遠してました。

僕は30過ぎてから考え方がシンプルになって、20代のように悩まなくなったんです。ただ、これで俺の生き方はいいのかなっていう自問は常にあって。で、そういう自問に対する考え方を古典から学びたい。古典って時代を生き抜いてきた思考だから、多分、物事を徹底的に考え抜いているはずです。そこから、自分の生き方の指針を鍛えたい。歴史を学ぶことも同じことです。

どうして自分の生き方を鍛えたいのか。それは現代社会ってどうなるか、わからないからです。原発事故しかり、地震しかり、ネットの発展しかり。家族も友人も自分もどうなるのかがわからない。それはいつの時代でも当たり前のことなんだけど、それでもここ3年ぐらいの変化のスピードが早すぎて、もうよくわかんない。明日はなんとなく来るだろうし、1週間先はこんな感じで、だから1年先の社会はこうなってるっていう予測が以前ならぼんやりと立てられたんですよね。それが当たるかどうかはともかく、予測ができた。予測ができると、安心できるんですよね、それが根拠のない予測であっても。予測したプロセスを通じて、安心が立ち上がっていく。

でも、今では先のことがまったくわからない。ちょっとした発想が少しずつ、気が付いたら形となっていて、社会の中心になりえることをネット社会は示したわけです。僕はそんなことを想像したことすらなかった。僕の頭の中は昨日より、明日、明日より、明後日っていう一歩、一歩進めてものごとを考えてしまいがちんですけど、今の社会って明日からいきなり1週間後に飛ぶじゃないですか。その社会を形作っているのが、ネット社会だから。自分だけが立ち止っていて、周囲が猛烈な速さで変化しているような感じです。

自分はこれからどうなるんだろう、どうしていけばいいんだろう、自分に残された時間はどれくらいあるんだろうっていう自問が最近とくに強いんですよね。だってね、目を閉じれば僕は子どもなわけですよ。昭和時代を生きていた子ども。小学生であり、中学生であり、高校生だった。おやじもおふくろも今よりずっと若くて。つい最近まで、そうだったんですよね。つい最近まで。それがいつの間にか僕は彼らの年齢に達してるわけです。いつの間にかっていうのは、1年365日あるわけだから、語弊がある言い方だけど、僕の感覚ではそう。

とするならば、僕が60歳を運よく迎えられたとしたら、僕はきっと同じように思うと思うんですよね。で、突然僕が生まれたように、僕は突然、死ぬ。そんなことを考えると、仕事をあくせくする理由がわかんなくなるですよね。お金が必要だから仕事をするのであって、仕事に自分の時間を奪われたくない。大切な人が僕にもたくさんいるから、生きている間に時間を共有したいんですよ。少しでもいい。同じ空気を吸って、同じ風景を見て、同じものを食べる。今の社会ってそんなことが全然できないじゃないですか。

だって、友だちは就職でバラバラになって疎遠になる。僕らは仕事で家族のもとから離れる。人間関係は会社が中心になるわけですけど、会社の人間関係って会社を離れると一気に終わるんですよね。そういう自明なことを認識せずに、きずなを大切にとかつながりの社会をとかよくいえるよな、っていうのが僕の考えです。