越境した西田潤

はじめに

日本のオブジェ焼を牽引してきた走泥社(1948−1998)は1998年に解散しました。陶芸作家の西田潤(1977−2005)は走泥社の解散から2年後、2000年の第38回朝日陶芸展で奨励賞、2002年第6回国際陶磁器展美濃の陶芸部門でグランプリ、2003年の第53回ファエンツア国際現代陶芸コンクールでグランプリを受賞するなどし、国内外から高い評価を受けました。この作文の目的は、八木一夫(1917−1979)を始めとする走泥社の歴史を概観することによって、西田の作品を日本のオブジェ焼史に位置づけることです。

2.西田潤の作品

ここで西田の作品を見てみます。2003年の第53回ファエンツア国際現代陶芸コンクールでのグランプリを受賞した作品は次のような作品でした。


Museo Internazionale delle Ceramiche in Faenzaより引用

西田は自身の作品の意図を次のように表現しました。

1280度で焼成した薄く掛けた釉薬のなかでも、そこには温度の差があります。僕はその部分をクローズアップしたかった。温度の幅を見せたかったんです(炎芸術:2003.p84)

日本の評論家たちは西田の作品を次のように評しました。まずは茨城県陶芸美術館学芸員の外舘和子さんです。

やきものという物質のなかに『温度』によって刻々と変容を示す多様な状態があり、それらを分かち難く混然一体のものとして示すことで、『温度域』という幅を、一個の表現として成立させるのである。
やきものという造形の構造が持つ『温度域』を、空前のスケールで眼に見えるかたちにする行為。それが西田潤の作陶である(外舘:2006.pp31-32)。

次に岐阜県現代陶芸美術館学芸員の高満津子さんです。

やきももの中は空洞であり、土は同じ厚みで積み重ねられていく。焼成しても”割れないように”工夫する。それが、陶芸制作の技術とも呼ばれるのだ。陶芸家が成形した、土の造形を、窯のに入れて焼成する。この焼成中、窯のなかでも造形の変化を見ることはできない。しかし誰もが一度はのぞいて見たいと思ったであろう。例えば、窯の温度は少しずつ上げられていく。数値でその温度を把握していても窯のなかでの土の素材の変化、造形の変化を確認できない。それを、西田は我々に見せてくれた(高:2005.p16)。

評論家たちは、西田が陶芸作品の温度域を作品を通じて表現したことを評価しました。日本のオブジェ焼史を振り返ればわかるように、西田のような作品はこれまで制作されることがなかったからです*1

3.走泥社

日本のオブジェ焼史を語る上で言及される団体が陶芸作家の八木らによる走泥社です。なぜなら、走泥社が陶芸作品の生活上の実用性を相対化させて、解放したからです。走泥社は「生活の役に立つ陶芸作品ではなく、役に立たない陶芸作品」を作るという理念を日本社会に提案し、オブジェ焼を作り出しました。日本社会が走泥社の前衛性を受け入れた背景には、日本社会が戦前的な価値観に対するアンチテーゼを欲したことや未来に対する進歩という欲望に、走泥社の前衛性がおそらく重なったからです*2
1950年代の日本社会は日米安全保障条約による対米従属、それに伴う国土の軍事基地化、朝鮮戦争を契機とする再軍備化など、民族と伝統に対する関心を深めました。その帰結の一つが建築から工芸分野にまで及んだ伝統論争です。この論争は、同時代の論者による伝統観をめぐる論争ではなく、過去の伝統観を乗り越えるための論争でした(北澤:2007.pp104−105)。
この論争を陶芸の文脈におきかえると、日展的な価値観こそが陶芸の伝統観でした。八木が1954年に発表した「ザムザ氏の散歩」は日展的な価値観とは対極の作品であり、だからこそ日本の陶芸史に残る作品として日本社会から評価、受容されたのです。他方、前衛の解釈者は伝統に内在していることを前提とします。八木に代表される走泥社の作品は前衛と伝統を内包していました。走泥社は陶芸作品を実用性から解放した代償として、前衛と伝統をどうとらえるかという問題を抱え込んだのです。この問題はオブジェ焼を制作する日本の陶芸作家たちが抱え込むことになりました。

4.新しい時代の胎動

京都大学名誉教授の乾由明さんは、走泥社が発足してから20年後、走泥社の前衛性が揺らいできた、といいます。なぜなら走泥社に参加せずとも、鯉江良二(1938−)のような前衛的な作品を制作する陶芸作家たちが京都の近隣外の地域から現れたからです。このとき八木が走泥社を解散させなかった理由が、若い陶芸作家たちによる八木への憧れだった、と乾さんは語ります。
その八木は1979年に死去。八木に代わって、走泥社の指導的な役割を担った鈴木治(1926-2001)は、先述した走泥社の前衛性の揺らぎに八木の死去が加わって、走泥社の存続させるか否かを葛藤しました。走泥社は発足から50周年を迎えて、1998年に解散しました。「豊かさの飽和」とまで揶揄されるようになった日本社会は前衛性をほとんど必要としなくなりました。走泥社の解散は、前衛性の飽和によって前衛性の消失が明らかなになったことを意味しました。
前衛性に内包されていた伝統はその対極軸を、グローバリゼーションに対するローカリゼーションを支える概念として移行していくことで、延命を図りました。ここで注目したい点は、走泥社に始まる前衛性の消失とはあくまでも日本のオブジェ焼史の枠組みの中において、ということです。つまり、走泥社による前衛性は90年代以降にあっては日本的なるものを支える「伝統」として、今後、位置づけなおされていくのではないでしょうか。
先に述べた「前衛と伝統をどうとらえるか」という日本的枠組みの中で語られた問題は、この局面においては、例えば「日本的なるものを乗り越えつつ、同時に日本的であることを表現していくか」という問題へスライドしていきました。モノ、カネ、情報、人が越境していくグローバリゼーション時代において、日本のオブジェ焼史はまったく新しい局面を迎えたのです。こうした時代の到来を告げるかのように、西田は日本のオブジェ焼史に姿を現しました。

5.越境した西田潤

西田は京都精華大学を2000年に卒業します。西田は八木の死去により走泥社の訴求力が低下する2年前に生まれ、走泥社の解散前に大学で陶芸を始めました。この点において、西田は走泥社の影響をそれ以前の世代と比べると受けていないはずです。このような背景にあって、西田のような作品が80年代や90年代ではなく、00年代に登場したのです。
西田は陶土を砕いて、ふるいにかけ、粉にしているうちに、粉末の美に惹かれます。西田は釉薬も陶土も美しい粉であり、その美しい粉を使って、作品の制作に励みました。釉薬も陶土も元をたどれば粉であるという西田の視点は、1960年代から70年代にかけての陶芸の技術革新の恩恵にあずかり、すでに出来上がった陶土や釉薬を使用する人々や、陶土か釉薬かという二者択一で陶芸作品を認識する人々の視点を押し広げるものでした*3。こうした視点から西田が到達した陶芸作品の制作方法は次の通りです。

大型の甕を成型→釉薬の原料を粉のまま甕に入れる→磁器土を焼いた造形物を甕に埋め込む→焼成(1250度から1300度の温度で3日から4日かける)→道具を使って甕を削る→中から焼け固まった造形物を取り出す→完成(制作期間は約3カ月)。

こうして見るとわかるように、西田の方法は日本のオブジェ焼作家たちが用いてきた方法とは全く異なりました。
西田はガス窯を使用しました。ガス窯の決定的な特徴は、ガス窯がプロダクト商品の生産に適していることからもわかるように、作品の質感や配色をほとんど完璧に近い状態でコントロールできる点です。言い換えれば、ガス窯は、釉薬が溶け出す温度、それが素地と溶けあう温度などの過去の様々な情報をもとにして、陶芸作品をきれいに焼くことを前提に作られました。西田はコントロール可能なガス窯でコントロール不可能な作品を作ろうと試みて、ガス窯の歴史的な前提までも揺さぶったのです。西田はガス窯と関わるがゆえに、ガス窯との間に根本的な隔たりを作り出しました。つまり、西田は陶芸作家として、陶芸作品の制作工程の思考停止を嫌ったのです。それこそが、陶芸作家としての西田の矜持だったのではないでしょうか。その結果が作品の「温度域」であり、作品の内部と外部の境界線の揺らぎでした。それは越境するグローバリゼーション時代を表現しているかのようです。

おわりに
西田はこれまでの陶芸作品の制作方法を相対化させ、したがって出来上がる作品はまさに独創的でした*4。西田は「役に立たないものを作る」という走泥社以降のオブジェ焼の理念を継承しながらも、従来の制作工程における思考停止を嫌い、その帰結として歴史的に構築されてきたオブジェ焼観から見事に越境した作品を作りました。西田の作品は日本のオブジェ焼史において、伝統と前衛をいかにとらえるか、という問題に拘泥しないポストオブジェ焼として位置づけられるのではないでしょうか。ポストオブジェ焼は走泥社の影響力の低下なしには語れないのです。
走泥社の活動をたどりながら、西田の作品を日本のオブジェ焼史に位置づけることは、戦後から90年代の日本のオブジェ焼の歴史を語りうる対象として歴史化することも意味しました。それはまた、西田世代以降の日本の陶芸作家が従来の国内の文脈ではなく、グローバルな文脈で評価されていく、あるいは積極的にそこに関わっていくことを端的に示しているのです。

≪参考文献≫
朝日新聞社文化企画局 名古屋企画部.『第38回朝日陶芸展』.2000.朝日新聞社文化企画局 名古屋企画部.
阿部出版.「炎芸術 vol74」.2003.阿部出版.
北澤憲昭.「伝統論争―60年代アヴァンギャルドへの隘路」『美術批評と戦後美術』pp103-122.2007.
編/京都国立近代美術館 日本経済新聞社.『没後25周年 八木一夫展』.日本経済新聞社.2004.
高満津子.「西田潤の仕事」『現代陶芸研究(2)』pp13-18.岐阜県現代陶芸美術館.2005.
外舘和子.「西田潤の陶芸 生成する『自然』獲得への壮絶なる挑戦」『絶』pp10-33.2006.
西田潤.『絶』.青幻舎.2006.
監/矢部良明.『日本やきもの史』.美術出版社.1998.
吉見俊哉.『ポスト戦後社会』.岩波書店.2009.

≪参考サイト≫
YUFUKU Gallery (酉福ギャラリー) - Contemporary Japanese Art
YUFUKU Gallery (酉福ギャラリー) - Contemporary Japanese Art
Japanese Ceramics Now, #14, Weekly Story by Aoyama Wahei, Ceramic Myths, March 16, 2005
Museo Internazionale delle Ceramiche in Faenza

*1:僕は西田の作品を見たときに、ガンダム的だと思いました。ガンダム的であることとはどういうことか。今もそれを言語化できません。

*2:走泥社が結成されてもそれを受容する社会が成立しなければ、走泥社は短命に終わっていたはずだからです。

*3:陶芸作家の坪井明日香は第38回朝日陶芸展で西田の作品を次のように評価しました。「“絶”西田潤の作品は私から見ると渋みの残る果実のように見える。ここに呈示された問題は、やきものの根源的な組成への疑問と探究であると思う。(省略)鉄分を含んだ少量の土以外は、うわ薬の固まりである。十種にも及ぶ長石を何層にも積み上げ焼固されている。中心部には温度が及ぼす長石が溶解されず芯と未成熟の世界を残す。これは昨今の釉薬へのイージーな取り組みに警鐘を与えているようにみた。」

*4:おそらく西田の後に続く陶芸作家は西田の独創性ゆえに西田との比較において常に語られ、時には「西田の二番煎じ」と揶揄されるかもしれません。それを引き受けることでしか、西田が開拓した道を歩くことはできないのです。