『糸とはさみと大阪と』

『糸とはさみと大阪と』という本をご紹介。著者は小篠綾子さん(1913-2006)。小篠さんは日本のファッションデザイナーの草分けであり、世界で活躍しているコシノヒロコ、ジュンコ、ミチコさんの母親でした。本書はその小篠さんの自伝です。以下、面白いと思った3点。

大阪・本町の問屋街で、さんざん迷ってギンガムやトブラルコの生地を仕入れ、胸はずませて帰宅しました。デザインも、襟にフレアをはさもうか、スカートはどうしよう……とあれこれ考え、やっと注文の服を仕立てたのです。姿見の前でお客さんに試着してもらうと、サイズもぴったりきれいに仕上がっています。
「なんや別人みたいで恥ずかしいわ。そやけど、ぴったしやねえ」
お客さんも大満足ですが、それ以上にわたしのほうが有頂天になってしまいました。お代を、と言われたとき、思わず手を振って答えたのです。
「ええの。この次注文くれはったとき、まとめてもらいます」
外を歩くのが恥ずかしい、というそのお客さんを、駅まで送っていきました。道すがら、和服の娘さんたちが、わたしたちを振り返って見ます。わたしは内心、嬉しくてたまりません。「ええでしょ、この服はあたしが作ったんよ!」
しかし、家に帰って机の引き出しを開けたとたん、わたし厳しい現実に引き戻されました。財布の中はからっぽです。これでは新しい生地を仕入れることもできません。
おそるおそる父に事情を話すと、父の怒りが爆発しました。「一円の金を二円にするのが商売や!お前は元もとってへんのか、慈善事業でもやっとるつもりか!」言うなり物差しをつかむと、狂ったようにわたしを叩きました。母が止めに入っても、「こいつは言うてもわからへん、なぐらなモノにならへんのじゃ!」(pp30-31)

とくに立体裁断は、わたしの一番得意とするところです。
立体裁断とはその名の通り、型紙に合わせて平面上で布を裁断するのではなく、人体の立体的な形に合わせて裁断していくことをさします。今でこそ立体裁断は珍しくもなんともない、洋裁の基本的なテクニックとして定着していますが、わたしの若いころはそんな方法を教えてくれるところはありませんでした。日本の立体裁断は二十数年前、文化服装学園の小池千枝先生がフランスで習得され、学校で教えられたのが普及のきっかけです。奇しくもその、小池先生の立体裁断の最初の生徒がヒロコたちでした。
わたいはだからそれ以前、立体裁断という言葉がなかった時代から、自己流でやっていたわけです。というのも、型紙を使って裁断する方法ではどうも面白くない。それよりも実際に布を着る人の体に当てて、直裁ちするほうが、自由に発想できる。
人間の身体という丸みをおびた立体に、一枚の偏平な布を合わせながら、その場でデザインするのがわたしのやり方です。だいたいこんな感じのデザインにしましょうか、ということだけ最初にお客さんとやりとりしますが、実際に布を合わせてみたらどう変わっていくかわかりません。ここにダーツを入れたら面白いだろうな、このドレープはちょっと面白いな、と考えながらやっていく。その過程が、わくわくするほど面白い。雑誌でしか知らなかったイブニングドレスも、そういうやり方だからこそ作れたのです(pp42-43)。

ジュンコが小松ストアにコーナーをもっていた頃、ジュンコを訪れて上京した時のことです。このコーナーはエスカレーターのすぐわきにあったものですから、エスカレーターで昇る途中でコーナーが見え始めるともうなつかしく、思わず「ジュンちゃんいるけー、お母ちゃん来たで!」と叫んでしまったのです。これで、まわりの上品なデザイナーさんたちのひんしゅくを買ったらしい。あとでジュンコに注意されました。「お母ちゃん、悪いけどもうちょっと上品な言葉使ってちょうだい」
その後何年かたち、ジュンコの会社の社長業をつとめることになったとき、「下手に岸和田弁しゃべったらあかん。なるべく人前では口はきかんようにしよ」と決意しました。会社を訪ねてくる大事な取引先などに、「あれがジュンコの母親か、あんな田舎者か」と思われたらジュンコがかわいそうだ、と思ったからです。東京の人たちの、歯切れのいい標準語に気押された、という面もありました。おかげで株式総会などで赤字経営を非難されても、言いたいことが思うように言えないくやしい思いをしたり、よけいにコンプレックスを感じたりもしました。
しかし、そのうちわたしも悟ったのです。度胸がついて開きなおった、といったほうが当たっているかもしれません。いくら東京の人の真似をして「そうですか」とお上品にやっていても「人間、裸になったらみな同じや」と。それからは平気で、岸和田弁を使いまくり、言うべきところはぴしゃと言うようになりました(pp227-228)。

昭和時代の岸和田という一地域で女性が服飾業を営み、家族を支えていく様子や小篠さんから見た3人の子どもの思い出を本書は教えてくれます。活き活きとした人間臭い文体が魅力的です。

糸とはさみと大阪と

糸とはさみと大阪と