ヤシロシゲル(28歳)

男はデニムにワークシャツ、クラッシクスニーカーを合わす。僕は男に声を掛ける。男は僕を訝しげに見たあと、「レコーダーの録音を消去してくれるのなら、別にかまいません」と答える。

(今日ここに来た目的は?)今日はまあ、職探しですね。初めてここに来たんですよ。で、入ろうか入るまいか迷ってる。もう、びっくり、この人の多さに。駐車場は満杯でしょ。タバコ吸いますか。僕は吸うんやけど、吸殻入れ見ましたか。山盛りです。

(前職は?)文化施設で働いていました。辞めた理由は、まあ、辞めさせられたのか。そこが小さな文化施設で、館長夫婦が高齢なんです。館長は半分ぼけてる。だから、昨日、2日前、今いったことが全部違うから、戸惑いますよね。僕は新人で、どうしたらいいかわからない。僕はその館の暗黙のルールや仕事はわからない。記帳のつけ方とか客のさばき方とか、教えてくれる人が誰もいない。仕事って、先輩の指示に従って、真似て、自分のものにしていくもんやと思うんやけど。もちろん前任者がいて、その人はドクターにいた院生なんですけど、仕事の説明書きを残していかはった。でも、説明書きだけじゃわからなくて。

僕が初めて入社したとき、その前任者に「ここにどれくらいいるつもりなん?」って聞かれて。「いや、長くいるつもりですけど」っていいますよね、普通。そしたら、「2年ぐらいがいいと思うよ」っていうんです。で、その人から話し聞いてたら、館長夫婦が僕を選らんだ理由があって。館長夫婦は子どもがいてへんから、僕を養子としてほしいらしいとか。占い師の占いで僕に決めたとか。興信所使って僕のこと調べたとか。僕の研究とか志望動機とか関心がないんですよ。僕は入社して、いきなり偏見がその老夫婦にできて。でも僕は偏見が嫌いやから、館長夫婦をちゃんと観察してから偏見を検証しようと思うけど、やっぱり頭の片隅に残るんですよね。で、僕はそこの養子になりたくない(笑)。自己防衛しました。薬指に指輪したり。「家族を愛してます」とか、さりげなく何回もいうて(笑)。あっちは「すごいなその年でそんなこというんか」って(笑)、驚かれましたけど。で、そこの家にはお手伝いさんのおばさんがいて、その人は優しい人で。だから、館長夫婦が見えてくるんですよ、おばさんに対する扱いで。奥さんがね、「はよして!」、「何やってんのや!」とか人を焦らすような言葉をぽんぽんいう。で、そういう言葉かけられたら、人間って焦るじゃないですか。おばさんも焦るし、声が高くなったり、顔がゆがむ。で、館長夫婦の外面がまた、めちゃくちゃいいんですよ。金持ちやから身なりがしっかりしてるし、足袋はいて、着物きて、帯締めてね、髪型も1つの乱れもない。それも毎日ですよ。皇室のカレンダーが壁にかけてあって、普段使いの食器も、品のいい清水焼とか使ってて。家の床柱も角がどこにもない。言葉使いも丁寧で、謙遜して、来客を上手に褒めて、扱ってる(笑)。

僕はそのおばさん好きやから、僕の館長夫婦に対する見方が決まってくる。ようするに金は持ってるけど、精神は貧しい人らやと。おばさんもそこを辞めたいんやけど、「旦那がはよ死んだし、年も50すんだし、辞められへんねん。あんたはここに長く居たらあかんし、よそに行ったほうがいいで」って笑いながら、僕にいうんですよ。だから、僕はその人らとなるべく距離をとる、共有する時間を極力減らそうとしてね。朝は展示室とか応接間に掃除機かけて、窓を雑巾で拭いて、トイレの便器磨いて、庭に水まいて、落ち葉拾って。朝は30分前で出てきて、その人らにちゃんとあいさつして、媚びて、館のカギと記帳とお金を預かって、帰りは戸締りして、閉館時刻に退館して、カギやらを返却して、あいさつして、媚びて、帰る。お菓子がなくなれば、仕事終りにお菓子を京都に買いに行く。占いとかわけわからんことを信じてる人らやし、僕は養子になるつもりがひとかけらもないことを行動に示してるし、館の収入ってそんなになかったから、その人らの機嫌そこねんように、ちゃんと仕事していることをあからさまに報告してました。

で、来館者が来たら、美術品を解説して、質問に答えて、気持ちよく帰ってもらう。僕、勉強好きやから。館にせっかく来てもらったからには、僕が勉強したことも伝えてましたね。それで食いついてきた人とは結構、話したりして。おもしろかったですよ、仕事。

(仕事は面白かったのに退職した理由は?)3月に予算会議で僕が失敗したんです。予算の計算が合わないことを、当日の予算会議で館の経営に間接的に関わる人たちに指摘されたんです。僕が去年の予算書を参考にして、予算書作成して、その後、社労士事務所にそのチェックしてもらうんですけど、社労士のチェックがちゃんとできてなかった。予算書の数字が合わない。結果、僕の責任やと。会議終わって、僕、ボロカスいわれて、凹みましたね。僕も悪いし、甘かったんやけど。社労士事務所も予算書チェックできてへんわけやったし。そこは不問。僕が予算書を作って、予算会議で発表して、僕だけに責任をかぶせるやり方は、僕とはしてはやりきれへん。館長は「恥かいた!」って怒鳴って、僕をにらみつけて、こぶし握り締めて、こぶしが震えてるですよ。で、その場は丸く収まってへんけど。僕はすいません、すいません、すいませんってめちゃくちゃ謝って。次の日、館のカギもらいに行ったら、奥さんが「主人が昨日な眠れへん、眠れへんいうてな、薬使って、2時ごろにようやく寝て。それで今朝から主人の体調が悪いねん。体内出血してるんや」っていう。館長はその場でボケーっとしてて。で、奥さんが「昨日のこともあったしな」いうて、僕はまた謝って、とりあえずその場は切り抜けて。で、仕事終わって、カギ返しに行ったら、また朝と同じこといわはって。それが3日間続いたんかな。もう、すごく気が重かった、その時は。だって、館長は体が弱ってる。僕のミスで体内出血してるらしい。もし、それで館長が死んだら、恨まれるじゃないですか。それやったら、僕が辞めて、すっきりするのが一番いいんかなと。でも、辞めたくないんですよ。なんせ、就職が決まったとき、僕もうれしかったですけど、親がめちゃくちゃ喜んだんですよ。特に親父が。僕と父親の関係は、1年に数回話せばいいほうで。その親父が「就職祝いは何がいい。こういう地域の美術の歴史も調べてな」ってその方面の知識に疎い親父がそういうことをうれしそうにいうんです。親父の隣にお袋がいて、苦笑いというか、そういう顔してて。僕も親父からそういわれると、うっとうしいけど、やっぱり照れくさいから。その期待を裏切るじゃないけど、踏みにじるでもないけど、上手くいえないですけど、そういうことになるじゃないですか。

(解雇に対する法律は知ってた?)法律上、解雇は合理的・社会的に正当じゃない限り、簡単にできないことを知ってましたよ。責任を僕だけに帰するのもおかしいし。そんなことばっかり考えてましたね。そんで、4日目の仕事始めに、奥さんが「あんたもいろいろあると思うけど、うちらあんたにせっかく来てもらったんやけど、昨日の夜な、主人とも相談して、あんたはまだ若いことやし、あんたにここを辞めてもらおうかと思ってるんや。あんたは人間じゃない」っていつもどおり丁寧にいわはる。それいわれたときは、時間が止まりましたね。頭に血が上ってがジーンとするというか。思考が動かないんですよ。何いわれたのか把握するのに時間がかかって。で、「僕も実はそのことを考えてて、辞めようと思ってます。すいませんでした」っていうてしまったんですよ。だけど、それをいわんと仕方ない。もう、そんときの記憶は強烈ですね、僕は正座して、奥さんと館長が座椅子に座ってて、僕を眺めて、窓から光が入ってね。

(将来に対する不安と希望はどちらが強いですか?)不安ですね。僕ね、生きるのがつらいと思うことが時々あって。それは体調が悪くて、集中力をなくしてるとき時なんですけど、そういう時はいろいろ考えて、もうあかん。大学院出た期待に反して今、僕、失業してるから、親とも友だちともなかなか話せないし。あほらしいけど、引け目がすごいある。「長い目で見たときに、今の状況をよい方向にとらえなおせる日がくる」っていうた人がいて、「なるほど」って思ったから。思うっていうか、そのことを信じてるから、まだ生きてます(笑)。

(世間にいいたいことは?)ほんまはね、僕、仕事が嫌いなんですよ。仕事せずに生きれたら、どんなにいいか。だって、仕事って金を得るための手段ですけど、そのために過労死、鬱病になったりするのはあほらしい。だけど、仕事したら、お金がもらえる。お金があるから生活できる。犯罪してお金稼ぐ度胸もないし。仕事は必要悪やと。で、僕が言いたいことは、仕事したい人はしたらいいんですよ。でも、僕みたいに仕事が嫌いな人もいる。そういう人間に仕事人間の価値観を強要してほしくない。理想いうたら、社会保険を会社と折半するじゃなくて、政府と折半やったらいいですよ。そしたら、会社に人生を捧げる必要も少しは減るでしょ。給料が20万もあれば生活できるし。週に4日、8時間働いて、あとの3日は趣味とか友だちとかで過ごすとか。そうなればいいですね。