『モードの迷宮』

『モードの迷宮』という本をご紹介。著者は鷲田清一さん、専門は哲学、肩書きは大阪大学総長です。以下、面白かった3点。

ボタンをきちんとはめているか、シャツにちゃんと糊やアイロンがあたっているか、靴はちゃんと磨かれているか、ズボンにまっすぐ線が走っているか、髪がていねいに梳られているか……。つまりは身体の正しい使用法を教えこむことによって、以後行為を内側から規制することができるようになる。このような従順な身体、従順な<わたし>の形成に向けて、身体の拘束、隠蔽、加工、変形、装飾といった衣服構成上のさまざまなポリシーが動員される。従順な身体、それは道徳の視線に浸透され、衣服の攻撃に服従する。しかもその事実をもはや認めぬほどに、それを内在化する。道徳は文字通り身体に書き込まれていたのである(pp42-43、一部省略)。

衣服はそれ自体としてみれば、縫い合わされたただの布切れにすぎない。だれかに着られることによって、衣服は衣服となる。しかしここでわたしはさらに、だれかに見られることによって、とつけ加えたい。衣服が何よりもまず<わたし>の可視性を変容させるものであるとするなら、それはそれをまなざす他者の視線を必要とするからである(p91)。

<わたし>の可視的存在はわたしにはせいぜい部分的にしか見えないものであるがゆえに、<わたし>は夢みられるしかないのである。この可視性の空白を埋めるために、わたしたちは<わたし>を映しだす鏡として、他者の視線に訴えかけるのであった。あるいは、見るわたしが他者の視線を取りこみつつ、見られる対象として自分を構成するのでなければならなかった。他者も、他者自自身であるためには同じことを要求される。そこで、こうした自他の共謀関係を媒介する共同の意味を可視性の表面に発生させるために、わたしたちは自らの可視性を切断したり、折り重ねたり、たわめたり、歪めたりというふうに、自らの可視性に介入してゆくのであった(p198)。

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)