陶芸界の3つの評価軸

陶芸作家Aさんは国内でいくつかの賞を受賞するが、日本陶芸界*1の評論家*2はAさんの作品を異端児扱いする。なぜなら、その作品は日展(日本美術展覧会)、日本伝統工芸展、走泥社という歴史的な評価軸に沿わないからだ。一人の評論家はあなたの作品は評価できません、とAさんに伝えたという。欧米圏の評論家は、しかし、Aさんの作品をこう評価する。今まで見たことがない作品。

Aさんは作家として数十年、国内で評価を受けないことに葛藤する。やがて国外のギャラリストやキュレーターがAさんの作品を買い求め、評価していく。その帰結として、Aさんは日本での作品発表を止めた。現在、日本陶芸界の評論家は、自分たちが評価しなかった作品を、欧米の評論家たちが評価していることにいらだつ。

まとめると、日本陶芸界は今まで見たことがない作品ゆえに、Aさんの作品を排除する。他方、欧米陶芸界は今まで見たことがない作品だからこそ、Aさんを評価する。

評論家が作品を評価する。その結果、作品に対する独創性の有無が生れる。評論家の蓋然性はその領域の歴史を知っているかどうか。独創性は歴史のなかからしか生れない。日本陶芸界の評論家たちはその領域で活動し、その歴史を知っているが、Aさんの作品を排除し続けてきた。

Aさんによる走泥社に対する見解が興味深い。Aさんによれば、走泥社は日展や日本伝統工芸展のあり方とは異なる方向を目指してきたが、その実、走泥社もそれらと同じ穴の狢だという。ある作品が走泥社的枠組みに収まれば、評価され、そうでなければ、評価されないからだ。ゆえに、走泥社発足から50年以上が経過しても、八木一夫さんや山田光さんを超える作品は出てこないという。

若い作家たちは先の3つの評価軸に沿わない作品を生むが、評論家はその作品を評価しない。若い作家たちは人的・経済な資源をほとんど持たないゆえに、いつの間にか日本の陶芸界から姿を消す。生き残っている作家も評論家たちによる3つの評価軸に沿う作品を作らなければ、売れない。作品づくりにおいて一見自由に見える作家はこうした不自由さを抱える。

かくして、日本陶芸界の3つの評価軸は現代においてもぶれない。

欧米陶芸界の評論家たちはAさんの作品を日本的だと評す。日本陶芸界の3つの評価軸からはじき出されたAさんの作品が欧米において日本的であるという皮肉。日展、日本伝統統工芸展、走泥社的な評価軸に属さない何か。その何かは欧米によるAさんの評価が日本に逆輸入されたときに、初めて理解される。

*1:作家と評論家たちの業界

*2:キュレーターも含む