ルーシー=リー 翻訳その2

The Lucie Rie Archive at the Crafts Study Centrep3を次のように翻訳しました*1

彼女の大きな望みは陶器の制作に、1920年代に名声あるウィーン工業美術学校で訓練を受けた工芸に、そして彼女が卒業・結婚後に一つの評価を築いてきた工芸に戻ることだった。ルーシー=リーは36歳でロンドンに到着するまで、1935年のブリュッセル国際展覧会のゴールドメダルを含めて、いくつかのヨーロッパのデザインフェアで賞を受賞した。しかし、彼女は手仕事という伝統的または卓抜した側面を理想しがちだった英国の工芸−陶芸界において無名だった。さらに、英国のアトリエの陶器は歴史上、極東の陶器に対するある稀に見る称賛によって様式上、影響を与えられていた。リーの陶器は大陸デザインという近代の美学から生じる乏しい線ときめ細かい表面を有し、英国の主な評論家たちによって上手く評価されなかった。陶芸家のバーナード=リーチは、君の陶器はあまりにも薄作りで、明確なロクロ目から恩恵を得るだろう、とアドバイスした。ビクトリア・アルバート美術館で陶磁器部門のウィリアム=ハニーは、彼女が陶器の器に碑器の釉薬を用いていたことを、彼女に話した。経営者という重要な立場であるリトルギャラリーのムリエル=ローズは、彼女の器の高台が弱過ぎる、といった。

リーは陶土に対するコパーの完全な経験不足にも関わらず、従業員として彼を雇い、そしてルーシー=リーの陶器は劇的なテーブルウェアの制作を再び目指し始めた。この労働力がルーシーとコパーを結んだ。彼女たちは、それらの標準的な方向性、つまり、お茶・コーヒーセット、薬味ビン、サラダボールなどのデザインと製造におけるパートナーだった。この陶器は特徴として、角ばっていたし、薄作りだったし、ダークブラウンかホワイト(あるいは一つの組み合わせ)で釉掛けされていた。いくつかはスリップ−細く、書き落としで描かれた、直線の細かな作業−で装飾された。それらの優美なテーブルウェアは次の10年にわたって、陶芸の主力だったし、ヒールズ百貨店のような多くの高級な直売店からスタイリッシュなデザインとして販売された。

*1:翻訳に誤りがあれば、ご一報ください