三代徳田八十吉展 in 兵庫陶芸美術館

5月3日14時。

兵庫陶芸美術館 The Museum of Ceramic Art, Hyogo - 土と語る、森の中の美術館乾由明さん(館長)、四代徳田八十吉さん(陶芸家。三代長女)、そして東真理子さん(朝日新聞文化事業部)による鼎談会「三代徳田八十吉の人と芸術」を開催。この3名が陶芸家の三代目徳田八十吉(1933−2009)を語った。
フロアから見て、左に乾さん、中央に四代目、右に東さんという配置。乾さんは杖を付き、ダンディーなスーツ姿。四代目は三代目の耀彩を想起させる着物姿。フロアは彼女の美しさを称賛。東さんは控えめなスーツ姿。会場は120名を収容するが、間に合わない。予備イスを出すほどの盛況ぶり。フロアの世代構成は若者1、中年4、老年5。
以下は鼎談会の内容をまとめたもの。

徳田さんは若い頃、九谷焼が嫌いでした。彼が小さいころにお父さんに叱られると、罰として色すりの仕事をさせられたこと、職人が猫背姿で仕事場で仕事をしていたことが原因です。彼は大学を中退してから、ダンスやマージャンで飯を食べてました。初代が亡くなる直前に、「三代目にだけ釉薬の調合を教える」といって、彼は家に呼び戻される。
徳田さんが九谷焼を見つめなおすきっかけが、中村研一さんという洋画家の言葉。「そんなに九谷が嫌いなら、九谷をやりなさい。徳田家は最高の九谷技術がある。それを嫌うなら、君はあたらしい九谷を生み出せる」それから彼は学生時代も含めて、日展に10年連続落選しながらも、38歳のとき、日展NHK会長賞を取るんですね。たたし、彼がただちにあの有名な徳田スタイルの作品に向かったかといえば、そうではない。彼は初代の絵付けと自分のそれを比べられることを嫌がりましたが、伝統的な九谷の絵付けを現代に合う形で続けたんです。当時は抽象表現の時代だったから、その影響が彼の作品に出ています。やがて、陶芸家の田村耕一さんから「グラデーションの作品のほうが君らしい」というアドバイスを受けて、彼は自分の進む道を見つけたんですね。
あとは徳田さんが伝統工芸のパンフレットを見たときに、重要無形文化財の選考基準が創造性を重視して、古典を再現することを必ずしも重視していないことを知った。それから彼は自分の作品を追及します。初代から教えられた釉薬は大体15種類だったんですが、そこにグラデーションの考えを導入して200種類以上の色を生み出し、色の土台となる器の傾斜や窯の温度で変わる釉薬の流れ具合を研究しました。研究が成功するとデータ通りの作品ができていました。
徳田さんは人、自然、平和を大切にする気持ちが作品にでてるんですね。前向きで、常に先があるという考えの持ち主でした。晩年は体の具合もそれほどよくはなかったのですが、「自分は人の3倍生きてきたから、いつ死んでもいい」といってオーストラリアに釣りに出かけたりね。
今でこそ、四代目が三代目をいいようにいってますが、実は彼が存命していたときは結構やりあってたんです。四代目は家の仕事と距離を置きたかったし、自分の陶芸を好き勝手に作っていた。それに、仕事がうまく行っていないときの彼が、母親を殴ったのを見てるから、反発してたんですね。2007年に三代目が倒れてから、四代目はここで色の勉強をしておかないと、一生色のことがわからないから色の手帳だけはコピーして肌身離さず持っていてね。

興味深いのは四代目の今後である。四代目に対する周囲の期待。日本陶芸界の日展、伝統工芸、オブジェという3つの評価軸との関係。現代日本の陶芸史に名を刻んだ三代目の偉大な仕事。徳田家という歴史、技術、知識を背負うこと。女性であること。四代目は自分の立場を考慮しながら、現代社会のなかでどのような作品を生みだそうとしているのか。四代目はこう語った。

徳田の色を使って、色々悩み、格闘しながら、その軌跡が自分の作品にでてくればいいと考えています。