ルーシー=リー翻訳その7

The Lucie Rie Archive at the Crafts Study Centrep8を次のように翻訳しました*1

1930年代後半におけるリーの移住に関連する一つの小さいが痛切な集団の記録がこのアーカイブに残る。ルーシー=リーの両親は最近、死去し、彼女の兄弟、今はエンジニアであるテディーはアメリカに移り住んだ。リーは仲介者という利点を持ち、ほどよく裕福であった(ハンス=リーはある帽子工場の経営者だった)。ビジネス界はしばらく英国で形づくられ、そのスキーのサークルの一人であるセオ=フランケルによって、英国への彼らの入国は支援されていた。ハンス=リーは彼が雇用の希望を持ったアメリカに至る道の準備段階として英国を位置づけていた。しかし、一つの社会的に適した婚姻契約は、10年後、まったく異なる関心と野望を持つ二人になる。これは一つの限界点であろうことをルーシー=リーは決心したようで、彼女は一人でロンドンに定住し、彼女の陶歴を再開することを決定した。
ハンス=リーは結局、計画通りボストンに向かった。このアーカイブスに残る切り抜き記事の通り、彼は一つの成功したキャリアに導く帽子工場を経営するよい立場を手にした。ハムステッドのルーシー=リーに宛てられた1938年から1939年の一連の手紙は労働許可書のために仕事部屋に対するリーの申請書の進捗をあとづける。1939年の1月、リーの仲介者はリーの気にかけている一通に対する返信を明確に書き、熟考の中でこの遅れを詫び、多数の状況を弁論する。ドイツに今もなおいるハンス=リーの奥さんの従弟に代わって、彼が「ミス=ハーミア」に1939年3月に書いた一通のコピーがある。彼はアメリカのビザが詳しく調べられている間、一時的な英国のビザに対するアドバイスを求める。この手紙の丁寧な調子と実際の査定はこの状況の難局にそぐわない。
戦時、アルビオン=ミューズでのボタン制作の冒険的な事業は、注文のための明細書のコピーを含む1941年から51年に20冊の複製本において描かれた。大部分の注文は量とトロントまたはノットのような型名によって短く明記されている。しかし、それらの複写記録は普通でない注文を記述しているおおまかな概要を含む。例えば、一番上にアンダーラインが引かれた「価値」とともに42年2月21日と日付が入れられたページは、あるバックルデザインのための記録的なスケッチを含む。ルーシー=リーの仕事から生じたこのボタンビジネスは、仲間の移民で古い知人であるフリッツ=ランプルによって設立された工場、ビミニのために圧力をかけて作るガラスボタンだった。

*1:翻訳に誤りがあれば、ご一報ください