『オールド・ノリタケと日本の美』

『オールド・ノリタケと日本の美』という写真集をご紹介。編者は近代陶磁器研究会会員の大賀弓子さん。以下、面白いと思った3点。

明治26(1893)年の、シカゴの万国博覧会を見学してアメリカの消費動向を探ってから帰国した(注、大倉)孫兵衛は、同地で買い込んだ西洋絵具や西洋絵筆を絵付け職人に配って、「コーヒー・カップの手間賃1個10銭を10倍の1円にするから、これからはこれで絵付けをしてもらいたい」と頼んだ。日本風のデザインだけでは限界があることを悟って、アメリカ人好みの西洋風への転換を図ったのである。これを機に多種多様の絵付け技法が、案出されていったのである(p104、一部省略)。

明治27(1894)年、森村組のニューヨーク支店が「輸出品の主力にしたいので、本格的な西洋皿のディナー・セットを製造することを考えてほしい」と言ってきた。しかし、これはコーヒー・カップどころではない。日本の焼物には存在しなかった「純白硬質磁器」をつくりあげなければならなかったからである。
(注、大倉)孫兵衛は、原土を探すために日本中を歩き回り、東京工業学校で窯業を学んだ技師を雇い入れてヨーロッパに留学させ、ヨーロッパの陶磁工場を見学するなどして見通しを立てた。スタートから10年後の明治37(1904)年1月、市兵衛とともに「日本陶器合名会社」を設立。
しかし、直径24センチの8寸皿が中心部で垂れてしまって製品にならず、やっと完成にこぎつけたののは、さらに10年後を経た大正3(1914)年のことだった。かくてアメリカ向けのディナーセットは1万1千組(大正5年)→3万2千組(同6年)→4万組(同7年)というように増え続け、「ノリタケ」の盛名は世界的な仁保のブランドとして鳴り響いた。しかし、不振の時代にあっては、孫兵衛・和親父子は芝浦製作所東芝の前身)からガイシを受注して赤字を埋め、水洗トイレの普及を見越して衛生陶器の開発を進めた。この両部門が小会社として独立し、今の姿になったのが、日本ガイシTOTOである(p104、一部省略)。

硯川:日本にはオールド・ノリタケについての記録がなかったとうかがったことがありますが、本当なんですか。
大賀:そうなんです。日本に帰ってからわかったことなんですけど、日本の陶磁器について書かれた本をいろいろ調べてみても、オールド・ノリタケについては、抜け落ちているんです。
伊藤:オールド・ノリタケが日本で評価されるようになったのは、アメリカよりも後のことなのでしょうか。
大賀:そうなんです。アメリカでは私がその存在を知る前から、オールド・ノリタケはすでにコレクターズ・アイテムになっていたんです。「NIPPON」ものの収集家たから研究者になったジョアン・ヴァン・パッテンという女性は、1960年代の終わりごろには、もうオールド・ノリタケに注目なさっていたんです(p106、一部省略)。

本書はオールド・ノリタケがどういう陶磁器であるのかを知るための写真集であり、その歴史的な背景を追うこともできます。構成は2002年に大倉集古館で開催された「明治の男たちの熱き美と心のプロジェクト」での同館の所蔵品とオールドノリタケを共演させた写真が9割、それに関係するテキストが1割。

オールド・ノリタケと日本の美

オールド・ノリタケと日本の美