故郷を失った父

14年前に父方の祖母が他界した。祖母の死後、A伯父が祖母の家で続けて暮らしていたが、そのA伯父も8年前に他界。お盆休みになると親戚が帰省し、にぎやかだった祖母の家は空き家になっていた。

祖母の家と土地を売って、今は別の家が建っていると父から聞いた。1年前の話だ。

僕は小学生のころ家族と一緒に祖母の家でお盆休みを過ごした。祖母が暮らす地域のテレビ番組の少なさに退屈し、仮面ライダーや忍者はっとり君、怪物君が放送されていると喜び、新聞はまだ読めなかった。僕は午前中にテレビで甲子園を見つつ、チューペットを食べながら、夏休みの宿題をしていたと思う。

僕は、父や母が祖母の家に到着し、玄関の扉をガラガラと開けて、「ただいま」という言葉を聞いて、不思議に思った。どうして自分の家でもないのに、「ただいま」というのだろう。母にいたっては、祖母を「おかあさん」と呼んでいたので、「どうしておばあちゃんをおかあさんと呼ぶんだろうか」と思ったが、疑問に思うのはいつもその一瞬だけで、10秒もしないうちに忘れた。

祖母の家に到着して、しばらくすると、僕は仏壇の前に置かれている木魚と鐘をたたきまくって、祖母を喜ばせ、今思い返せば、母に気を使わせていた。僕は退屈しのぎに、祖母が使っていた電気マッサージ機を足の裏や首筋、性器に当てたり、読み飽きた漫画を何度も読んでいた。近くの大きな公園で遊んだこともあるが、友だちがいないから寂しく、慣れないがゆえに怖く、30分もしないうちに祖母の家に戻った。

祖母の家の外壁は漆くいで、古い家だった。僕は祖母の家を見るたびに、周囲の家と見比べて、引け目を感じた。ボロいからだ。1階で独立した部屋は母屋だけで、台所・ダイニング・居間・寝室がつながり、就寝時だけダイニングと居間と寝室をふすまで仕切っていた。ゴマ粒ほどのアリが畳や板床を駆け回り、僕はアリを観察したり、つぶしたり、なんとなく見つめていた。僕は自分の家の清潔さを思った。父と母は20時を過ぎると僕を就寝させていたので、祖母の家でもそれは変わらなかった。寝室で眠るとき、ふすまの間から居間の光がもれ、両親や親戚、祖母たちの笑い声やテレビの音、扇風機が回る音を聞きながら、僕はいつの間にか眠って、朝を迎えた。

風呂場は広くて、浴槽と洗濯機が置かれていた。浴槽は大人がひざを抱えて入れるぐらいの大きさで、だから僕には大きかった。風呂の湯は決まった水位で、周辺にアカがこびりついていた。僕はこのアカをこすって、落とそうと試みたが、全く落ちず、翌日、洗剤を使って掃除をしたが、それでも落ちなかったので、3日目にあきらめた。この風呂場は空たきができるだけで、水を温水へ変えることはできなかった。僕はこの風呂を不潔だと思う一方で、魅力も感じた。父は浴槽につかりながら、水鉄砲で遊ぶ僕を眺めて、「この風呂はぬるいな」とつぶやいた。

薄い青色の冷蔵庫が脱衣所に置かれていて、オレンジの粒入りの缶ジュースがその中にたくさん入っていた。僕は冷蔵庫を開けて、風呂上がりの手でよく冷えたこの缶ジュースをつかみ、感触を楽しんだ。風呂上がりにそれを飲むと、大人になったような気分がして、特に母親に対して誇らしかった。母はそういうものを買わなかったし、飲ませることをあまりよしとしなかったが、祖母の家では何もいわなかった。2階へ上がる階段の裏側が脱衣所の天井に通っていて、E叔父やA叔父が階段を上り下りする音できしんでいた。

便所はぼっとん便所だった。便器の内部はいつも暗く、朝の小便はともかくとして、僕はここで大便をするのがいつも怖かった。僕は「ここに落ちたらどうしよう」「ここでおばけから浣腸されるかもしれない」「どうしておばちゃんの家はぼっとん便所なんだろうか」と便所へいくたびに考えていた。僕はまた尻を突き出して、便器へしゃがみこんでからもそう考えた。この便所は快活だった当時の僕にとって唯一の憂鬱で、芳香剤と糞便が入り混じった臭いも嫌いだった。この便所のドアも変わっていた。ドアノブは回すものではなく、つまむもので、鍵はドアの内側に取り付けられた真鍮製の輪に、壁の左側からフックをひっかけるタイプの原始的な鍵だった。ぼっとん便所はいつからか西洋式の水洗便所に変わり、僕はほっとした記憶があるが、内鍵はずっと変わらなかった。つまり、この家の外見はボロで、家の中はとても魅力的だったが、僕はこの意見に賛同してくれる人がおそらくいないだろうと思ったので、自分の考えを誰にもいわなかった。

僕たちが帰省する前後に、B伯父夫妻&いとこの兄貴たち、C伯父夫妻、D伯父夫妻も帰省してきた。B伯父の奥さんはきれいな人だった。D伯父の奥さんが夕食時に、居間で「私とB伯父のおばちゃん、お母さんの中で誰が一番好き?」と僕に聞いた。僕はB伯父のおばちゃんが一番きれいだったと思っていたので、「B伯父のおばちゃん」と答えたかったが、それをいうと僕がいかにスケベな子どもであるかが露呈すると思って、僕は「お母さん」とだけ答えた。D伯父の奥さんが我が意を得たりという顔で、笑い、母は苦笑いを浮かべ、父や祖母、B伯父の奥さんは笑っていた。

B伯父のいとこの兄貴たちは昼間からファミコンでよく遊んでいた。僕はファミコンをほとんど知らず、それゆえに遊べば、兄貴たちからやっつけられるだろうことが惨めで、恐ろしかった。僕はファミコンで遊びたい気持ちを持っていたが、遊べなかった。あるとき、兄貴たちが父に「野球のオールスターって、叔父さんいつ?」と聞きながら、ファミコンで競馬ゲームをしていた。僕にはその姿がなぜか大人びて見えた。僕は「巨人とか阪神とかオリックスはあるけど、オールスターって野球のチームにあったかな。オールスターってオリックスのことかな」と思ったが、そんな質問をすれば、「やっぱり裕文は子どもだな」とかなんとか兄貴たちからバカにされそうで、質問できず、そのとき「あ、さっきおじさんがいった馬が当たった。おじさんすげー」という兄貴たちの驚いた声がした。

兄貴たちやE叔父はコーラをよく飲んでいた。僕もそれを飲むことが格好いいと思って、飲んだが、口の中がバチバチとして痛く、口の中ですぐに泡と化し、僕はやっぱり牛乳が美味しいと思った。そのことを口に出せばよかったが、僕はみんなから「やっぱり裕文は子どもだ」と思われるのが子どものくせに嫌で、いい出せなかった。あるとき、僕はジャワティストレートを冷蔵庫で発見した。パッケージデザインが美味しそうに見えたので、これは飲めるという根拠のない自信からプルタブをはがそうとすると、母が「それはやめたほうがいいんじゃない?」と僕を止めようとした。僕は「大丈夫」と答えて、プルタブをはがし、一口飲むと、お茶に砂糖の甘さがなかった。僕は世の中で売っているお茶は全て甘い物だと思っていた。同じ色を使ったパッケージデザインの午後の紅茶は甘い。僕はこの冷えた、苦くて、まずいお茶を、喉にためてから、勢いよくゴクンと飲み干した。お茶はつめたく喉をスルリと抜けた。今思えば、まさにストレートなのどごしだった。僕は母の助言を受け入れればよかったと後悔し、あまりのまずさにこのお茶を金輪際飲まないことに決め、プルタブをはがして、口づけたことにもかかわらず、残こしてしまったことをもったいなく思い、誰かが飲んでくれないかななどと願っていると、母が「これは大人のお茶だからね」といって、ガラスコップに注いで、飲み干した。

僕は夏祭りのくじ引きでエアガンを当てた。エアガンの威力は強力だった。さっそくいとこたちが関心を示し、空き缶を庭に並べて、2m越しにそれを撃つと、カン!と当たって、空き缶は後ろに倒れた。僕は庭の野良猫めがけて、エアガンを撃っていたが、かわいそうだ思い、そのうちにエアガンを持て余した。あるとき僕はエアガンに弾が入っていないことを確認してから、「いざ!」と侍のマネをして、切腹の要領で腹に弾を打ち込むと、腹に鋭い痛みを感じた。腹を見ると、皮膚が弾の形にうっ血していた。僕は弾がないことを確認したのに、なぜ弾が出てきたのかが不思議だったが、ただ一つ決意したことは、自分に向けて撃たないことだった。

祖母は台所に立って、母と食事を作っていた。台所の小窓から差す日の光が祖母たちを照らして、僕は祖母たちの背中を見て、母と祖母が何かを話しているのを聞きながら、テレビも見ていた。祖母は虫めがねで新聞紙を読んだり、洗濯物を干すために庭へ出たり、畑にいる野良猫たちを追い払ったり、父の名前を「ちゃん」付けして僕を驚かせたり、僕たちとテレビを一緒に見た。祖母の姿が見えないとき、祖母は畑に出て、雑草を抜いたり、畑や植物に水を撒いていたり、畑でごみを燃やしていた。あるとき祖母はごみを燃やしていて、そこへやってきた僕に「最後まで燃えたら、戻りなさい」といった。僕は燃やすこと自体に興味を持っていたので、喜び、引き受けた。雑草や紙類は勢いよく燃えるが、プラスティックのごみの燃えかたはいびつで、臭気がした。それから、祖母は母屋で横になっていたり、古くなったマッサージイスに座り、背中や肩をほぐしていた。母屋には祖母のタンスや洋服、ハンガーがたくさん置いてあり、僕は畳に敷かれたゴザに寝転んで、その感触を楽みながら、母屋に入り込む涼しい風を満喫し、祖母と過ごした。僕が大人になって、働き始めたとき、経理担当の老女が「孫に会うと最初は楽しいけど、ずっと一緒にいると疲れる」と笑いながらいっていた。子どもは疲れないのだ。だから僕も疲れなかった。いろんなものに興味があり、いろんな人と話すのが好きで、一人になるのが嫌いだった。母屋にいるときの祖母はひょっとすると疲れていたのかもしれない。

夏休みが終わりに近づき、僕たちが帰るとき、祖母はお弁当を作ってくれた。祖母は油まみれの台所に立ち、四角いフライパンで卵焼きを焼いた。小さなアリが床板を歩いていた。僕は出港するフェリーの中で祖母の街の夜景を眺めながら、さようならおばあちゃん、また来ますと思い、父と一緒に祖母の弁当を味わった。祖母の卵焼きは甘かった。

数年後、83歳になった祖母は心臓発作で突然亡くなった。6月だった。父は急いで帰郷し、僕たちは遅れて戻った。僕たちが最寄り駅に到着したとき、父が迎えにきて、「涙が枯れた」とボソっといった。車が祖母の家の近づくにつれ、僕は少しワクワクしていた。暑かったし、晴れていたので、小学生休みに戻った感覚を味わっていたし、いろんな親戚に会えるし、「祖母は本当に死んだのか?」という疑問に対する答えを目にできるからだった。

「間山○○葬儀」という祖母の名前が墨字で書かれた大きな看板が祖母の家の前に立てられていて、数台の車がわきに止まっていた。祖母の死を半信半疑だと思っていた僕に、祖母の死が実際に迫り、僕はそれでも祖母の死が信じられず、いつもように駐車場を歩き、玄関をくぐると、黒い革靴が玄関に無造作に脱ぎすてられていて、僕はそのわずかにスペースに革靴を脱ぎ捨てた。いつもと変わらない祖母の家の匂いがあり、家の中はしんとしていた。

僕はリビングを抜け、居間に入ると、寝室で仏壇側に頭を向けた祖母の姿を見た。祖母の皮膚は黄色に近い土色に変わっていた。祖母の爪はどす黒い紫色に変色していて、醜かった。祖母の皮膚の色は布団や祖母に着せられた白装束の色を際立たせた。僕は「祖母を火葬したあとに、この布団を捨てるのだろうか」と思い、それから「おばあちゃんはひょっとしたら生き返るのではないか」とも思った。なぜなら祖母の胸が少し上下していて、つまり祖母は呼吸をしているように僕には見えたからだ。しかし、誰もそのことを指摘しなかった。線香と鐘が祖母の枕元に置かれ、僕は鐘を鳴らして、線香に火をつけた。母はハンカチを目元に当てて、泣いていた。C伯父夫妻が遅れてやってきて、C伯父は「おふくろ…」といい、慟哭した。B伯父はすでに亡くなっていて、理由はわからないが、亡くなったB伯父の奥さんと僕たちの家は絶縁したので、B伯父の奥さんもいとこの兄貴たちも葬儀に出席していなかった。E叔父はいとこの兄貴たちと唯一連絡を取っていた人物で、「あのな、だい、ばあちゃんが死んだ」と悲しみを淡々と伝えて、電話を切った。口数が少なく、優しいA伯父は最初から最後まで涙ひとつ見せなかったのが、不思議だった。D伯父は祖母のかかりつけの医者に対して「あいつのせいだ」と文句を垂れ、目をはらしていた。僕はくだらない葬式上の質問を親戚に投げかけ、ひんしゅくを買った。僕は黙り込み、周囲の様子や祖母を見ていた。祖母は起きなかった。

中年と若い葬儀屋の男たちが棺を運んできた。父が祖母を持ち上げようと祖母に触れたとき、「あ!」と驚いて、小さく叫んだ。祖母の体温はドライアイスの冷たさに変わっていたからだ。祖母は納棺された。僕はみんなと一緒に祖母の棺を持ち、霊きゅう車へ乗り込み、棺をそっと置いた。クラクションが鳴って、祖母は祖母の家をあとにした。僕たちは「間山家」と書かれたバスで葬儀場へ向かった。

僕は葬儀場の人気のない場所で、大泣きしたが、痛い泣き方だった。僕は「人前では泣かない。人がいない場所で泣く俺は格好よい」と考え、祖母と過ごした時間を思い出しながら、ボン・ジョヴィのアルバムをMDで聞き、その音楽に反応して、泣き、鼻汁を垂らし、ティッシュを使うを繰り返した。しばらくして、母方の叔父が僕の姿を見て、叔父は会場へ消えた。僕は「この人は俺をどう思っただろう。男らしい奴だと思ったのだろうか」などと考えた。祖母の死は悲しかったが、僕の涙は他人に見られることを前提とし、僕は祖母の死を利用して、自分をよく見せたい欲望に囚われていた。

祖母の通夜はトラブルなく、終わった。僕はお経を唱える僧侶を見て、ドリフターズによる葬儀コントを思い出していた。もちろん祖母は生き返らなかったし、読経中にハエが僧侶の頭に止まることもなかった。祖母は死んだままだったし、僕たちは笑わなかった。僕たちは翌日、火葬場へ向かった。

火葬場は大理石調の美しいホールだった。「○○家」「△△家」「□□家」と書かれている案内看板が館内に放射状に置かれていて、もちろん「間山家」の看板もそこにあった。ここにいる人たちは黒い礼服や学生服を着て、ほっとした顔や憔悴した顔、涙で顔をはらした顔を見せていた。演技をしなかったのは子どもたちだけで、嬉々とした表情を時折見せた。

祖母が焼かれる前、僕たちは色々な花を祖母の顔や足元、腰の回りに置いた。花は花の香もしたが、どちらかといえば、草臭かった。D伯父の奥さんが「お義母さん、きれいにしないと」と祖母に伝えるのではなく、自分にいい聞かせて、祖母の顔に化粧を施し始めた。僕は「お義母さん、きれいだよ」というD伯父の奥さんを見て、その行為の理解に苦しみ、「死人の顔は死人の顔で美しいじゃないか」とわかったようなことを考えていたが、誰も化粧を止めなかった。D伯父の奥さんは「○○さん、お義母さんの唇に口紅を塗ってあげて」と母に促し、母は祖母の唇に口紅を塗っていた。

祖母がいよいよ焼かれるとき、祖母の棺はレールの上に移された。扉がレールの先にあり、そばに赤いボタンがあった。このボタンを押せば、祖母の棺は扉の向こう側へ静かに吸い込まれ、祖母の姿は永遠に失われる。僕たちは祖母の棺を囲み、僕はC伯父を見た。ボタンを押す役割を担う人物はC伯父だった。C伯父は長男で、若いときに左腕のひじから下の腕を失い、血縁関係者の中で最も長い時間を祖母と共有した苦労人だった。C伯父はひたいにシワを寄せ、まぶたを強く閉じ、唇を堅く結び、顔を震わせていた。その顔は、人が慟哭する最初の瞬間の顔だった。C伯父はボタンをそっと押した。祖母の突然死に対する無念、祖母にもっと多くのことをしてあげたかったという悔恨、祖母に愛され続けてきたのに、永遠の別れを意味するこのボタンを押す人間が他でもない自分…という言葉にできない悲しみを僕はC伯父の顔から読み取り、僕もまたC伯父と同じように目を閉じた。

ブザーが「ブー」と鳴り響き、僕たちは、祖母が向こう側にゆっくりと運ばれていく様子をただ見ていた。C伯父がボタンを押した瞬間、僕は他の伯父/叔父たちを観察した。彼らはほっとした顔を見せていて、僕は拍子抜けした。僕は祖母が焼かれる過程を想像した。燃えやすい棺と花、白装束、体毛がまず燃えて…それから皮膚や目玉が溶けだして、その熱さに驚いた祖母が目を覚まし、あまりの熱さに壁をかきむしって、絶叫して、生きたまま、焼かれ死ぬ…

係の人が「50分後には焼けますから」といった。言葉通り、祖母は50分後、焼骨となって出てきた。むっとした熱気と臭気が焼き場に漂っていた。祖母の焼骨は骨格標本のように秩序だった構成と形ではなかった。骨の焼けた臭いは僕の記憶の底にしみついていて、僕はB伯父のそれを思い出した。係の人が「これがのど仏ですね。これは最後に骨壺へ入れるものなので、最初に取ってください」といい、C伯父とD伯父がそれを行った。父は「おふくろがいつも飲んでいた薬のせいで骨がボロボロだ」と周囲に同意を求めるようにいい、否定する者は誰もいなかった。母方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱え、A伯父はいつもどおりかしこまっていた。D伯父が「お前がこれを拾え」と僕に命じ、僕とE叔父が祖母の大腿骨をさい箸でつまみ上げた。それは素焼きの陶器をはしでつまむような感触だが、2人でつまんでいるものだから、力の持っていき方に差異があって、感覚は独特だった。僕は大腿骨をさい箸で注意深くつまみ、骨壺へ入れた。大腿骨は「カコン」と音を立てた。主要な骨を入れ終わると、係の人が「細かいお骨などは私どもがやらせていただきます。皆さまは控室でお待ちください」といい、僕たちはその場をあとにした。祖母はもういなくなった。

祖母の葬儀後、同居していたE叔父は祖母の家を出て、マンションを買い、同じく同居していたA伯父は祖母の死から6年後、急逝した。こうして祖母の家は空き家になった。

祖母の家と土地はやがて売りに出され、買い手がついた。誰かが立ち会うわけでもなく、祖母の家は取り壊され、がれきとなった。がれきはどこかへ持ち運ばれ、そこは更地になった。今どきのこぢんまりとした家が更地に3軒、建てられた。この間、3カ月。E叔父にいわすと、「あっという間だった」。E叔父はそれをカメラに収め、写真を父たちに送った。

この夏、僕は「帰省」し、E叔父と墓参りをした。僕はE叔父に連れられて、かつて祖母が暮らしていた場所を見にいった。そこは一新されて、面影はひとかけらなかった。何もない。「僕たちは昔、ここで過ごした。土地も人も、景色も少しずつ確かに変わっていく」という決まり文句は事実だった。僕は悲しみに類する感情が自分から立ち上がってこなかったのが意外だった。ここまで跡形がないと、かえってすがすがしかった。祖母とA伯父は初めて他界できた、と僕は思った。

毎夏、世間はお盆休みの帰省ラッシュで盛り上りを見せる。父は帰省せず、家にいた。父は帰るべき故郷を失っていた。父は会社の都合で祖母の家から遠く離れた場所に転勤させられ、サラリーマンとして生き、会社に貢献し、母と結婚し、僕をもうけ、家を買い、僕を育てた。父は多くのサラリーマンと同じように離れて暮らす肉親と気軽に会うことはできなかった。父はお盆休みを利用して、帰省し、母(僕にとっての祖母)に会っていた。父は母と会うたびに、これで最後の別れになるかもれないと考えたのだろうか。それとも人は死ぬのものと割り切っていたのだろうか。

父は祖母の死後、数年で定年退職した。父は「会社は組織だから、いつか必ず退職する日が来る。お父さんもそうだ」と僕にいい、僕は定年まで会社を勤め上げた父を誇らしく思った。退職後の父は好々爺のように毎日を過ごしていたが、ある日、僕は、父が会社からの賞状その他を戸惑いもなく、散りぢりに破り、ゴミ箱へ捨てている姿を見た。僕はそのとき、会社に対する父の愛憎、この場所で僕たちを育てながら、働かざるをえなかったことに対するどうしようもない思いを垣間見た気がした。ここに祖母の死を挿入したとき、「可能性としてもっと別のよい何かがあったのではないか、でも俺は仕方がなかったんだ」という父のやりきれなさを見た気がした。

明日、父と会う。父の故郷はどこにあるのだろう。