美味しい食事

とある中華屋に行った。

店内はカウンター席、奥にテーブル席が1席。細長くて、奥行きがあり、狭い。カウンターのテーブルの奥行は週刊誌ほどで、やはり狭い。

俺はスポニチにざっと目を通して、フライ麺と餃子を注文した。

紺色のTシャツを着た店の親父は50代ぐらいで、常連客であろう若い女へ「これ新作やねんけど、どう?」と気さくにいって、若い女の前にそれをコトリと置いた。俺はその時、自分が常連客ではないことを自覚し、この女を少しだけうらやましく思ったが、俺はそんなことに気を止めず、だからスポニチを読んでいる格好をして、そのうちに実際に記事が目に入ってきた。記事はボクシングの世界戦を扱っていた。

「おっちゃん、めっちゃ美味しいわ、これ」という若い女の声が俺の耳に入り、ボクシングの世界戦の記事を読んでいた俺は現実に戻った。俺は「俺にはやっぱり新作を出してくれないのか」とほんの少しだけ残念に思い、この女をまたうらやましく思ったが、俺は常連客ではない。俺はそんなことをおくびにも出さずに、スポニチのページをめくると、記事は阪神タイガースだった。阪神タイガースが勝っても負けても、阪神タイガースを扱う記事の量は変わらない。これが大阪版スポニチの特徴だ。親父は、俺が注文したフライ麺の具材を炒めている。親父の後姿は厚みがあり、その厚みは親父の人生そのものを示しているように思えた。

まず餃子が、次にフライ麺が出てきた。

ここのフライ麺と餃子が非常に美味しくて、俺は「外食で幸せな気分になったのはいつぶりだろうか」とスポニチを読みながら、考えていたが、考えているとフライ麺のパリパリ感は失われてしまうし、餃子が冷えてしまうので、パリパリ感と温かさが失われない程度の早さで、俺はフライ麺と餃子を交互に口に運び、よく噛んで、食べた。食事を通じて幸せになることは久しぶりのことで、俺は「何のために働いているのか」と聞かれたら、「ここの中華を食べるためだ」といっても過言ではないと思った。俺にとっての外食はまあまあ美味しいことを意味する。だから美味しい外食に出会うことは滅多にない。

美味しいものを食べたからといって、嫌なことも辛いことも忘れるわけではないが、幸福感が風船のように膨らんで、嫌なことや辛いことを隅へ追いやって、やがては押しつぶしてしまうような経験は初めてのことだ。俺の感動はおおげさなんだろうか。

美味しい食事にどれだけ出会えるかが今後の幸せの一つの拠り所になる気がしたが、「やっぱり俺の感動は大げさなんだろうか。安易なんだろうか」と俺は自制しかけ、しかし美味しい食事を食べて元気になった事実は疑いようがなく、自制がほどけた俺は会計時に「何時まで営業していますか」と珍しく質問してしまった。

街灯に照らされる夜道を歩く俺は「ああ、美味しかった」と何回つぶやいたのだろう。俺は幸福なまま家路に着いた。