隣人は孤独死

ふかした豆が腐ったような、淡く、重い臭い。


毎朝、僕は自宅マンションの扉を開けて、フロアを歩き、その臭いを通り抜ける。
夜はその臭いを通り抜けて、自宅に戻る。
僕は帰宅時に郵便ポストを確認する。各部屋のポストは1階に集合している。
あるポストがいつも目に留まる。そこだけが郵便物であふれかえっている。
「これ以上、入らないのに、無理やり詰め込まれたポスト」。
このポストはそういうポストで、こんなポストは他にない。


あの臭い。あのポスト。


僕は、両方が関連していると思わなかった。
自分がその「世界」に生きていると思っていなかったからだ。


6月28日、日曜日。僕は15時ごろに散歩へ出た。
空は晴れていて、光が廊下を照らし、テンションが上がる。
いつも通りフロアの廊下を歩き、だからあの臭いが通り漂う。  


僕は「退去勧告」という警告書が貼られた扉の前で立ち止まった。
もさっ、ぬた〜っとまとわりつくような重い臭気は明らかにここからだった。


台所に面した小窓(マンションによくある窓)は半開きで、
僕はそこから少し離れ、背伸びをして、中をのぞく。
僕の部屋と同じ構造だ。太陽光が厚手のカーテン越しに部屋へ漏れて、
部屋は薄暗いオレンジ色。背伸びをやめて、視線を小窓に戻すと、
2匹のコバエがお互いの体を追いかけるようにして、グルグル飛びまわる。


僕は腑に落ちた。
ポストも臭いも何もかも。
多分、この部屋の住人は死んでる。


僕は30分ばかり散歩に出た。
いつもと変わらない日曜日だったのに、足取りが重い。
それから僕は昼寝をして、目が覚めたのは21時過ぎで、シャワーを浴びた。
あの臭気が自分の部屋にまで漂っている気がする。
バスタオルや台所の臭いすら気になり、食欲が失せた。


勘違いかもしれない。
住人がたまたま不在で、生ごみの臭いがひどくなっただけかもしれない。
僕はインターネットで「マンション 死体 臭気」と検索し、
あの臭いと似たような記述を探した。
ない。
ほっとした。


あった。
「納豆にチーズを混ぜたような臭い」


僕は薄気味悪くなり、親しい友人にメールを送って、眠り、
翌日、管理会社に電話をかけた。


女「おはようございます!○○住宅、担当の○○です。」
その日は割とさわやかな青空で、女の声はそれとよく合っていた。
間山「おはようございます。私、○○に住んでいる者です。
あのですね、その、え、僕と同じフロアで○○号室に退去勧告の紙が貼られてます。
ご存知ですか」
女「いいえ、存じ上げません。どうかされましたか」
僕はなぜか声が勝手に震えて、
間山「それで、あの、その部屋から異臭が、腐った豆のような臭いが、その、してます」
(沈黙)
女「ええ……」
間山「あの、えーっと、あの、言いにくいんですけど……
その部屋の人、多分、死んでます」
(女が言葉に詰まる。沈黙)
女「え、え、死んでる……本当ですか。
あの、え、え、あの、そうなんですか。ここは、あの、営業所なので、
管轄は違うところなんです。お客様のお名前と部屋番号を教えてください。
いつからその臭いが……」
間山「間山といいます。部屋の番号は○○号室です。
10日から1週間ぐらい前からだと思います」
女「お電話番号を……」
間山「○○○です。今は仕事中なので、電話に出れないかもしれません。
その時は折り返します」


昼休みに入って、携帯を確認すると、
管理会社の着信と伝言が残されていた。僕は電話をかけた。


間山「間山です」
男「お電話ありがとうございます。あの、
退去勧告が張られていたお部屋って○○号室でしょうか」
間山「そうです」
男「確認ですが、ご契約いただいている部屋の番号を」
間山「○○号室です」
男「ありがとうございます。こういうったことは時間もかかることですので、
マンションの管理人に連絡をして、業者なども呼んで、確認いたしますので、
2、3日お待ちいただけないでしょうか」
間山「わかりました。生ごみが腐ってるだけかもしれないし。
もしかして、亡くなっていたんですか」
男「それはお答えしかねます(毅然とした口調)。
もしかしたら、また間山様へご連絡をさせていただくかもしれません。
その時はよろしくお願いします」
間山「そうですか。わかりました」


管理会社はあの部屋の様子を確認したのか。
だから「それはお答えしかねます」なのか。
それとも問題がなかったんだろうか。
わからないまま、僕は仕事をした。


僕は少し残業をした。自宅に帰るのが嫌だった。
寄り道をして、喫茶店で本を読み、ジュンク堂に立ち寄った。
台所で食事を作っても、食べる気が起こらない。
僕は近所の中華屋で食事を済ませ、マンションに21時ごろに戻った。
あのポストを見ると、いつも通りで、これでもかというほど
チラシがねじ込まれていた。


僕は「ああ、よかった、何もなかったのか」と安心して、
しかしあの臭いの中を抜けるのはごめんだった。
いつもと違う階段から自宅に戻ると、目に飛び込んできたのは、
養生テープでメバリが施されたあの部屋の扉と窓枠。
それから扉と窓、空気孔が薄手の半透明ビニールシートでおおわれていた。
ビニールシートは廊下に吹き抜ける風を受けて、カサカサと音を立て、
廊下の空気はどんより重い。



翌日、1階の掲示板に「安心サポート電話」という張り紙が掲示されていた。
それは、管理会社が電話で安否を毎週、確認するサービスで、
アニメ化されたおじいさんとおばあさんがそこに描かれていた。


管理会社からの電話はその後なかった。
退去勧告とメバリは今もそのままで、一部のビニールシートは
風によってはがれかけている。あの臭いは消えた。
ポストの中身も1週間前にきれいになくなったが、
1週間分のチラシでまた埋まりつつある。


僕は気になっていたなるべく読みたくない、
しかし自分に直面しうる現実を描いた孤独死無縁社会の本を読んで、
それからドキュメンタリーを見た。


孤独死のリアル (講談社現代新書)

孤独死のリアル (講談社現代新書)

無縁社会 (文春文庫)

無縁社会 (文春文庫)


結局、隣人の孤独死は今日、わかった。


僕はこのマンションで一人だけ顔見知りがいる。
美しい歯並び、明瞭な言葉使い、白い肌、高い声、白髪、腰を少しまげて、
杖を突いて、ゆっくり歩く老女だ。彼女はここに住んで37年目になるという。
僕が14時過ぎに毛抜きを買いに出かけ、
傘をさした老女を追い抜いたとき、声をかけられて、
振り向くと、その人だった。僕らはドラッグストアまで一緒に歩いた。


「あなた、あの部屋知ってる?あの部屋の人どうなってるか知ってる?
孤独死やってんって。女の人で、私もスーパーで2回ぐらいしか見たことないけど、
いつもサングラスしてる人。あなた見たことある?ないのね。
亡くなってから、3か月ぐらい経ってたみたいで、なんか半分、
白骨化してたみたい。え、それは違うって?なんでそう思うの?
臭いが1週間ぐらい前からあったから?そう、あなたが電話したのね。


あの日の夜6時ぐらいから、警察、消防、救急がわんさか来て、
それからあの映画でよく見る鑑識官っていうの?
若い人らがどんどん来て、ブルーシートが廊下にひかれて、
私の2件隣で、あなたとの2つ斜め前の部屋。そうそう。
それで、私その様子を見てたけど、もう足がすくむ思いで、膝が震えた。
あの人がここにやってきたのは3年ぐらい前かな。
私が最初話かけたときに、あんまり人と話したくないって雰囲気やったから、
それからもうあんまり関わらないでおこうと思ったの。
少し変わってたと思う。身寄りもなかったみたい」。