今日、偉い人に会った

今日、偉い人に会った。その偉い人は行政の長である。

俺はその人の仕事の中身を知らないが、その人が行政の長というだけで、その人は偉い。

俺は前日からこの偉い人と会うのが憂鬱で、なぜなら俺はその人と比較して、何をとってもいいところがないという思い込みを自分に突き付けたからであった。思い込みとは「思いを自動的に込めてしまう」ことであり、「自動的に込める」とは過去から現在に至るまでの社会化によって出来上がった思考の癖であり、癖とは強固なものであるから、俺はその思い込みを解体できずに、ようするに居心地の悪さを抱えて、今日を迎えた。

ひるがえって俺は自分にとって居心地のいい人間関係とは何かと考えた。俺にとって居心地のいい人間関係とは相手に対して自分の何かが秀でていて、それは相手もまたそうであり、ようするにそれはプラスマイナスゼロの関係なんじゃないのかと思ったのである。「類は友を呼ぶ」の類とは、お互いの何か秀でた部分が「ほとんど等価=類する」であるということではないかと思えてきたのである。

人間関係とは社会関係である。社会関係である以上、この人が社会的に有用であるかないかという問いが立ち上がり、この問いが立ち上がると、社会的な優劣を感じてしまう。優劣の量がはっきりしているほど、距離ができ、一方は卑屈さを、他方は優越を抱え、両方が五分であるほど居心地がいい。それで、友達のような人間関係においてはこれが自明ではなく、特別な人間関係の時にこれが自明になる。そういう意味で、俺は友達という人間関係はうまくできてるものなのだなあと感心し、だから俺は偉い人に会うのが憂鬱だったのである。

その行政の長はスマホばっかりいじってて、ただの格好悪い若者でした。