『終わりきれない「近代」八木一夫とオブジェ焼』

『終わりきれない「近代」八木一夫とオブジェ焼』という本をご紹介。編集者は樋田豊郎さんと稲賀繁美さん。肩書きは前者が秋田公立美術工芸短期大学学長、後者が国際日本文化研究センター総合研究大学院大学教授。以下、面白かった3点。

「オブジェ焼」という言葉の登場と、そこに込められていた意味についてスケッチしてみたい。この言葉がいつ発案されたのかといえば、それは1965年(昭和40)前後のことだったと思われる。新聞の文化欄にその頃から登場しているからだ。美術評論の場では1990年(平成2)頃まで「オブジェ焼」が使われているので、この言葉の寿命は1960年代半ばから90年頃までの、およそ25年間だったということになるでしょう(p15、一部省略)。

東京と京都では工芸のオブジェ化にたいする温度差があった、ということかもしれません。東京国立近代美術館での八木一夫の収蔵作品数は、3点でした。これに対して京都国立近代美術館では、八木の収蔵作品数は現在28点です。なぜこんなに落差があるのか。東京で八木一夫が評価されていなかったわけではありません。いまにして思えば、走泥社の作品には、つまりオブジェ焼には、京都という地域の匂いがついていたのです。この「地域性」を備えていたという点にこそ、オブジェ焼を「近代工芸史」上に位置づけるときの判断の分かれ目になるものでした。すなわち、「地域性」の具備にこだわってしまえば、近代芸術に変貌することを目指してきた「工芸」の近代化作業に、オブジェ焼は組み込めない。しかし反対に「地域性」の具備をいったん棚上げにしてしまえば、オブジェ焼はアメリカ西海岸のセラミック・スカルプルチャーを日本に移植し、それが日本全体に広がる礎を築いた功労者だったということになります。この見方ならば、オブジェ焼を「近代工芸史」に組み込むことができます…(pp21-23、一部省略)。

地方でも独自に工芸の「近代化」が模索されてきたのだという考えを取り入れるならば、「オブジェ焼」は京都の陶芸文化である「京焼」の延長線上に登場にしたという解釈も可能になるわけです。もし、こうした「オブジェ焼=京焼の戦後版」という解釈が成り立つならば、オブジェ焼が「地方性」を具備していたのは当然だということになります。そして、1980年代になってその「地方性」が薄められたとき、オブジェ焼が「クレイワーク」へ拡大継承されていったのは当然の帰結だったということになるでしょう(p32、一部省略)。

本書における樋田さんの論考は刺激的です。オブジェ焼を語るにはこの序論を読む必要があるんじゃないかな。