「茶碗と花の苦しみと楽しみ」『芸術新潮 2008年3月号』pp100-102

「茶碗と花の苦しみと楽しみ」『芸術新潮 2008年3月号』pp100−102をご紹介。このページは陶芸家の第15代樂吉左衞門さんと華道家の川瀬敏郎さんの対談です。以下、面白いと思った3点。

川瀬:茶碗を作るとき、誰かに使ってほしいと思ってる?
樂:それはそうです。もうこれ以上ガラスの中に自分の茶碗を閉じ込めたくない、という思いは強い。そもそも彫刻をやめて茶碗を作りはじめた理由がそれだったから。
川瀬:何が違うなろう、彫刻と(茶碗と比べて)。
樂:茶碗は器だから。誰かが使ってくれる道具という、少なくともその一点においてはここの世界に存在する意味がある、と思った。それが救いだった(p101、一部省略)。

樂:たとえば僕のこの茶碗、右上から左下に釉がひとすじ流れている。これは窯のなかで釉が溶けて自然に流れたものではない。筆で描いた線です。口縁の曲線も、箆の削りにしても、僕の仕事は作為的だし、意志的なものです。それはもう、ぎりぎりまで考え抜いてやっているわけです。けれどもやきものの場合、そうした自己の意思がそのまま残ることはない。火によって否応なく変質し、消されるから。そしてそれも、ある種の救いなんですよ。作為を自然が洗い流してくれる。自己の表現が昇華されて、何か別の領域のものになる気がする(p102、一部省略)。

樂:(僕は)飲みやすさ、使いやすさのために茶碗を作っているわけではないから。
川瀬:じゃあ何のため?
樂:この世界はいつも軋んでいて、自分もまたそこで苦しみ、悲しみ、もがいている。そうしたなかで生まれた茶碗をどこかで手にした人もまた、同じ苦しみ、悲しみを抱えているはず。僕の葛藤は茶碗を通じて、きっとその誰かに伝わる。伝われば何かがかわる、何かがうまれる、そう思っているからだよ(p103、一部省略)。

今回紹介した『芸術新潮3』は「樂吉左衞門が語りつくす 茶碗・茶室・茶の湯とはなにか」と銘打って、大特集記事を組んでいます。雑誌の約半ページ、80ページ分の写真と記事で、樂さんが茶の湯や茶碗の系譜を語っています。樂さんの茶碗に対する考えを知りたい方にぜひ。

芸術新潮 2008年 03月号 [雑誌]

芸術新潮 2008年 03月号 [雑誌]