「『工芸』概念の成り立ち」『境界の美術史』

僕らは陶磁器を工芸に位置づけていますが、そもそも工芸とは何ぞや、という疑問にすぐさま答えられる人は多分、それほどいません。それに答えてくれる論考が『境界の美術史』という本に収録されれている「『工芸』概念の成り立ち」です。著者は北澤憲昭さん、跡見学園女子大学の教授であり、美術評論家です。北澤さんは日本の美術の制度史を追いながら、工芸概念の成立を明らかにしていきます。以下、面白いと思った3点。

じつは、「美術」概念の形成過程は、「工芸」概念の形成過程でもあったからだ。あらかじめ「工芸」なる枠組みがあって、それが貶められたのではなく、「美術」なるものの純粋な在り方が追求されてゆく過程で、いわばそのネガティブとして「工芸」という枠組みが生み出されていったのである。「工芸」という古い漢語が日本語の語彙に定着をみるのも明治になってからであり、しかも、当初は、いわゆる「工業」の意味で使われていたのであった(pp219-220、一部省略)。

絵画が、ナショナリズムにみずからの主題と様式的契機をもとめはじめたのである。その典型的な例が、フェノロサ岡倉天心に主導された「日本画」の形成であることはいうまでもない。ここにおいて絵画問題の機軸は、経済的関心から政治的・思想的関心へと転換された。それが「美術」概念の純化と相俟って、ウィーン万博以来の工芸中心主義的「美術」観の退潮を促してゆくのである(p227)。

工芸に占拠されていた明治初期の「美術」は、初出時の言語にあたるkunstgewerbeというドイツ語にふさわしい存在であった。ただし、それは、たんに言語に忠実であったということを意味するわけではない。そこには主体的な契機も見出される。明治初期の「美術」の在り方は、江戸時代以来の造形の在り方の踏襲であり、また、工芸品が対西洋貿易の有力な輸出品たりうることを見込んだ美術行政の結果でもあったからだ。しかし、国民経済の確立へ向けて重工業指向のプログラムが本格的に始動すると、「美術」行政の力点は、富国論から国民精神の形成へと移ってゆき、一方、工業の重点は手工業から機械へと移行していった。これによって、「美術工業」という折衷的な言葉=概念が誕生した。ところが、かかる折衷的概念の存立を不可能にするほどに純粋美術と機械工業の斥力が強まってくると、工業からも美術からも疎外された新たなジャンルが産み落とされることになる。しかし、「工芸」と呼ばれるこの第三のジャンルこそ江戸以来の造形伝統の正統的な継承者であり、しかも明治初期「美術」の紛れもない嫡子だったのである(pp235-236、一部省略)。

境界の美術史―「美術」形成史ノート

境界の美術史―「美術」形成史ノート